PCR 検査の拡大を肯定するべきか否定するべきか

 PCR 検査を増やすと医療崩壊がおきる。だから検査をするべきではない。テレビ番組で出演者はそう言っていた。新型コロナウイルスの感染の検査の数を増やさないほうがよいというのだ。

 テレビ番組の出演者が言うように、PCR 検査の拡大はしないようにしたほうがよいのだろうか。そのほうが広く国民のためになるということが言えるのだろうか。かりにそう言えるのだとして、どれくらいの検査の数がもっとも適したものなのだろう。検査の最適な数の線引きはどこに引くのがふさわしく、またその線引きの引き方の合理性や妥当性はどういうことから言えることなのだろう。

 まったく検査をしないか、最大限に行なうか、ほどほどに行なうかで、どれが正しいのかがあり、またほどほどといっても具体的にどのていどがもっとも最適なのかをはっきりとさせたい。局所の最適化のわなにはまることはなるべく避けるべきだ。局所の最適化のわなにはまると、ほんとうにふさわしい大局の最適にはならない。

 PCR 検査は検査の精度が七割ほどだと言われている。この七割の精度というのがやっかいなところだろう。もうちょっと精度が高いかもしくは低ければはっきりとした判断をきかせやすいが、七割というところから検査の拡大の肯定派と否定派が出てくることになっている。七割のところを高いと見るか低いと見るかが人によってちがっている。

 PCR 検査の拡大の否定派で引っかかるのは、それが新自由主義(小さな政府)の思想とつながっているように見える点だ。PCR 検査の拡大をせず、検査を抑制して、ウイルスに感染するもしないもそれはそれぞれの人の自己責任だ、というのがちょっとだけかいま見られる。それぞれの人でウイルスの感染にたいして自己責任で対応してくれというつき放しのようなところがある。

 PCR 検査の拡大の否定と新自由主義をからめてしまうとものごとがごちゃごちゃになる。それらをからめてしまうと新自由主義の是非についても問われてくる。それらを切り分けるようにして、別々に見て行くようにしたほうがとらえやすい。

 PCR 検査の拡大をすると医療が崩壊すると言われているのがあるけど、これについても切り分けるようにしたほうがとらえやすい。この二つを結びつけてしまうと修辞学で言われる因果関係からの議論になる。原因と結果という確かな因果関係として見るのではなくて、それぞれを切り分けるようにできる。

 医療の崩壊を防ごうとするのであれば、それそのものをとり上げるようにして、どのようにしたらそれを防ぐことができるのかを探って行くべきだ。その要因は色々にあるはずであり、たんに PCR 検査をしないようにすれば防げるとは言い切れない。要因を体系として分析して行き、核となる要因を見つけて行く。

 PCR 検査の拡大の肯定派と否定派とで、どちらが正しいのかはわからないが、因果関係からの議論で見られるとすると、たった一つの原因やたった一つの結果ではなく、色々な原因や色々な結果がとり上げられる。色々な原因と結果の組みがありえるとすると、PCR 検査を拡大するまたはしないという原因から、どのような結果がおきてくるのかは色々にあることになり、また結果の生起確率のていどがどれくらいかがある。まちがいなくこういう結果が出るとは断言できづらく、思わぬ結果が出ることがないではない。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『本質を見通す一〇〇の講義』森博嗣(ひろし) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)