他国の国の首相ではなくほんとうは日本の国の首相が率先して言うべきものである、核兵器の廃絶の意見

 戦争における、原子力爆弾の犠牲者にむくいる。そのためにはいまの世界から核兵器をなくして行くようにしなければならない。ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相はそう言っていた。

 戦争のさいに日本は原爆をアメリカに二回ほど投下されたが、そうした過去の負の経験をもつ日本は、核兵器にたいして国としてどのような見解を示すのがふさわしいだろうか。日本の首相は核兵器にたいしてどのような意思を示すべきだろうか。どのような具体の行動をとるべきだろう。世界においてどのような制度の構築および実践の正義をなして行くようにするのがよいだろう。

 核兵器については核抑止論などの色々な意見もあるだろうが、ニュージーランドの首相が言うような、核兵器をなくして行く方向性を具体として打ち出して行くべきだろう。人類は核兵器とは共存することはできないということで、核兵器をなくして行く方向性の意見と行動を日本の首相にはとってもらいたい。

 ほんとうであれば、ニュージーランドのアーダーン首相が言っていることを、日本の首相が言っていなければならないものだろう。それを言っていなければならないのは、日本が過去の戦争で原爆を二回ほど投下された負の経験をもつからだ。それなのにもかかわらず、しかるべきことをニュージーランドのアーダーン首相に言われてしまっているのがある。これは日本の国にとってはなはだ情けないことである。

 ニュージーランドの首相の発言からうかがえることは、それが意味することとして、それと照らし合わせてみると、日本の国は歴史に弱いのがある。日本の国は過去へのふり返りに弱い。過去をふり返ることがきちんとできていなくていい加減だ。そのために、いまだに過去にまつわることで日本のまわりの国ともめつづけている。

 日本の国の中でも、原子爆弾の犠牲の地になった長崎市広島市の首長はとてもきちんとしたことが言えている。それに引きくらべて日本の国の首相は歴史をきちんとふり返られていないことがうかがえる。長崎市広島市の首長はきちんとした歴史についての見識をもてているが、日本の国の首相は歴史についての見識のていどが高くなくていい加減でずさんだ。日本の国の首相は自国をよしとする自民族中心主義の歴史修正主義の愛国の歴史観に染まっているように見うけられる。

 歴史をどのように見なすのかについては色々な見なし方があるから、絶対にこれだけが正しいとは言い切れず、色々な文脈がなりたつものだろう。色々な文脈がなりたつのはあるものの、日本の国に見られるのは、歴史へのふり返りの弱さであり、国にとって都合の悪いことは無いことにしてしまおうというよくないあり方だ。たとえ日本の国にとって都合が悪いことであっても、きちんと認めてとり上げて行くという誠実さが持てていない。そこを国は改めるようにして行かないと、日本の国が行き詰まるのを改めることがのぞみづらい。

 英語のことわざにあるように、過去の負の経験の痛みをしっかりと引き受けることなしに得られるものはあまりない(no pain,no gain)だろう。自民族中心主義の歴史修正主義の愛国の歴史観だと、痛みをできるかぎり引き受けることを避けつつ、得られるものだけを得ようとすることになるから、それだとほんとうに日本の国のためになるようなものを得ることはのぞみづらい。

 参照文献 『新版 一九四五年八月六日 ヒロシマは語りつづける』伊東壮(たけし) 『ナガサキ―一九四五年八月九日』長崎総合科学大学和文化研究所編