ウイルスの感染に対応するために国会を開くべきかどうかと、西洋の弁証法

 国民のためを思うのであれば、政治家は国会を開いてほしい。東京都の医師会は政治家にそう呼びかけていた。新型コロナウイルスの感染が広まっている中で、医療の崩壊が危ぶまれるのがあり、危機感をつのらせている。

 国会を開くべきかどうかでは、開かないほうがよいということがテレビ番組では言われていた。国会を開いても、野党が首相などのあげ足とりをするだけだから、開かなくてもよいのだという。国会を開いても、たんに税金がかかるだけであり、その必要性はそう高くはないという。

 国会を開いたとしても、野党が首相や与党のあげ足とりをするだけだから、国会を開くことはいらないのだろうか。国会を開かないでいつづけるのでよいのだろうか。

 西洋の弁証法を持ち出すことができるとすると、国会を開いて政治家が互いに生産的な議論をし合うのは、正と反がある中で合にいたれているあり方だ。日本のいまの政治では、合にいたれていない。ただ正と反があるだけだ。だから国会が開けないのである。国会を開かないのではなく、政権や与党が国会を開けない(開きづらい)。

 東京都の医師会が言っているように、国会を開くべきなのは、弁証法において、合にまでいたれているのでないとならない。合にまで止揚(アウフヘーベン)されていることがいる。日本の政治ではそれができていなくて、正と反がただたんにぶつかり合っているありさまだ。

 ウイルスの感染にたいして総合の対策を打って行くためには、いまの政権が賢いか、もしくは弁証法において合にまでいたれていることがいる。日本ではないほかの国の政治ではそれがのぞめるところがあるだろうが、日本のいまの政治ではそれがのぞみづらい。いまの日本の時の政権は賢いとは言い切りづらく、弁証法の合にまでいたれていないのがある。

 弁証法において合にまでいたれていないと、正と反があるだけで、それらがぶつかり合うことがつづく。不毛な自己欺まんの自尊心による敵対が行なわれつづける。生産的な議論が行なわれないままになる。このことの責任は主として(その大部分は)いまの時の政権や与党にある。

 政治の自由民主主義が保たれていれば、弁証法において合にいたることができやすいが、いまの時の政権は自由民主主義をひどくないがしろにしている。それで自由民主主義が壊れてしまっている。それがあるために、弁証法において合にいたることができづらく、正と反がたんにぶつかり合うようなあり方になっている。

 ウイルスの感染に総合に対策を打って行くためには、国会を開くようにして、なおかつ自由民主主義を立て直して行くようにする。ほかの色々な見かたもあるだろうが、それらをすることがいるのだと見なしたい。それらをすれば十分だとは言えないが、それらが行なわれないのであれば、ウイルスの感染に政権がしっかりと対応することは必ずしものぞみづらい。これまでにもまちがっていると見られる政策がいまの政権によって行なわれているが、それに歯止めがかからないままになるおそれがある。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫