いまの首相や政権の代えがいないということの意味すること

 おれか、おれ以外か。ホストの芸能人がそういうことを言っていたのを見かけた。これになぞらえられるとすると、政治においては、いまの首相か、それ以外か、というのがある。

 いまの首相による政権か、それ以外かでは、ほかに代えとなる人がいないのだから、いまの首相によるよりほかにない、と言われるのがある。はたしてそれはふさわしいことだと言えるのだろうか。

 代えがいるかどうかの点から見るのなら、それを極端におし進めて見ることがなりたつ。代えがいないことをおし進められるとすると、おれか、おれ以外かでは、おれ以外がまったくいないことになる。おれ以外がまったくいなくて、おれしかいない。政治でいうと、いまの首相による政権だけしかいない。そういうことになると、日本の国はなりたたない。

 いまの日本の国は、おれか、おれ以外かでいうと、おれによってなりたっているのではなくて、おれ以外によってなりたっている。おれ以外が日本の国を支えている。そういう見かたもなりたつ。

 おれか、おれ以外かでは、おれが根源なのではない。おれ以外のほうが根源にある。政治では、いまの首相による政権ではなくて、それ以外のほうが根源に当たる。

 政治においては、おれ以外は反対勢力(オポジション)に当たるものだ。その反対勢力の力があってこそ日本の国は何とかなりたっているのがあり、おれに当たるいまの首相による政権の力の無さを何とか裏から補っている。そういう見かたができるとすると、反対勢力がいるおかげでいまの首相による政権がなりたっていると言える。もしも日本の国の中に、いまの首相による政権だけしかいないのだとしたら、日本の国はとっくにつぶれている。きびしく言えばそういうことが言えないでもない。

 そもそもの話として、首相や政権が自分たちでもっている力はそれほど高いものだとは言えず、それ以外がもっている力のほうが高い。それ以外がもっている力によって、何とか日本の国が(もしもなりたっていると言えるのであれば)なりたっている。もしも、首相や政権だけの力によるしかないのであれば、日本の国はなりたちづらい。それ以外のほかの力がないのであれば、日本の国をなりたたせるのは難しく、おかしくなってしまわざるをえない。

 おれか、おれ以外かで、おれのとり代えのきかなさがあるのだとしても、政治においては、それを反転させて見ることがなりたつ。じっさいに大事なのは、おれというよりは、おれ以外のところにある。おれ以外の持っている力を無視することはできづらい。

 いまの日本の国にはそこまで創造性があるとは見なしづらいが、それと同じように、いまの首相による政権にもそこまで創造性があるのだとは言いがたい。日本の中や外にある色々な資源を政権は十分に使えていない。少ししか資源を使えていない。政治にたいする動機づけが高いとは言えず、ただの権力の保守や保身に走っている。政治をなして行く技術や、客観でわかりやすい説明をする技術は高いとは見なしがたい。

 政治のことがらにはさまざまなものがあるが、そのことがらへの関心がうすくて、表面的でうすっぺらいところが政権には見うけられる。さまざまな政治のことがらについての論点を深められていなくて、浅いままのものが多い。きびしく言えば、政治そのものができていないとすら言えないでもない。それができていないと言えるのは、自由民主主義を壊してしまっているためだ。政権が自分たちを不当に特権化してしまっているところがあり、さまざまな価値についての寛容さがあまり持てていない。

 首相や政権がすごくて、それ以外が駄目なのではなくて、それを反転させることができるのがあり、それ以外のほうがすごいというか、それ以外の持つ力の無視のできなさがある。日ごろから焦点が当てられやすい首相や政権に目を向けるのではなく、それ以外のところにもっと焦点を当てて見ることができる。

 参照文献 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫