日本人であれば日本の国のことをよしとしたり好きであったりしなければならないのかどうか―近代の中性国家の原則

 日本人であるのなら、日本の国をよしとするは当たり前のことなのだろうか。日本の国のことをよしとしなければならないのだろうか。それはまったくまちがいのない自明なことだとは言えそうにない。

 場合分けをして見られるとすると、日本人だからといって、日本の国をよしとすることがまちがいなくよく働くとはかぎらない。それが悪く働くこともある。じっさいに悪く働いたのがおきたのが戦前や戦時中のときだ。

 日本人だからといって、日本の国のことをよしとしないのだとしても、それがまちがいなく悪く働くとはかぎらず、よく働くこともまたある。日本の国にたいして的を得た批判を行なえることがある。

 日本の国は、国がなりたったはじめのころから、もともと日本の国をよしとするべきだという価値観に踏みこんでいた。国民が日本の国をよしとするようにうながしていた。明治の時代にはじめて日本の国民国家がつくられたときからそうだったのだという。

 日本人であれば日本の国のことをよしとするのは当たり前のことだとされるのは、日本の国が日本人にたいしてそうし向けていたことによっている。そのほうが日本の国にとっては都合がよいわけだが、近代の国家のあるべきあり方とは言えそうにない。

 近代の国家では、国家は国民がどのような価値観をもつかにまで踏みこまないようにすることがのぞましい。これは中性国家の原則と言われるが、日本の国はこれがとられない形でこれまで進んできている。日本の国では、国家が国民の価値観に踏みこむことがさも当然のこととされていて、それが平気で行なわれている。

 日本の国をよしとするかそれともそうではないかは、個人のそれぞれの価値観のもち方にまかされることがらだ。よしとする人がいてもよいが、そうではない人がいてもかまわない。それが近代の国家の中性国家の原則にかなうあり方だろう。日本の国では、この原則がとられないことが多く、日本人であればこうでなければならないという、表面的な道がとられることが多い。

 道というのは、何とか道というようなものだ。たとえば国家道や国民道みたいなものである。ほんとうはそんな何とか道などないのに、それがあたかもあるかのようにされている。ほんとうはそうでなくても別にかまわないのにも関わらず、日本人であればその(せまい)道を踏むべきだとされてしまう。

 国家というのは共同幻想によるものだから、かりに国家道や国民道というのがあるのだとしても、それは幻想の道に当たることになるだろう。それよりも個人のそれぞれが色々な価値観を自由にもてたほうがのぞましい。日本人であればこうであるべきだとしてしまうと、日本人ということの意味がせまく固定化されてしまうから、それをゆるめるようにしたい。固定化をゆるめるのとともに、日本や日本人ということを細かく見て行くようにして行き、その中に色々なものを包摂するようにして行く。そのほうがさまざまなちがいをくみ入れることができやすいので、じっさいのあり方により近づいて行きやすい。

 参照文献 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ)