日本の首相が土下座をする像がつくられている

 韓国の従軍慰安婦の少女像がある。それにたいして日本の首相らしき人が土下座をしている像がつくられている。この像はよくないものだとして、韓国の政府が何とかするべきだということを日本の官房長官は言っていた。

 日本の官房長官は土下座の像を国どうしの文脈においてとり上げている。それとはちがい、この像は民間の人がつくったものだから、民間の人の表現の自由の文脈でとらえられるものだとされている。

 民間の表現の文脈では、たとえば日本人がアメリカを批判する表現をしてもよいのだし、他国の人が日本を批判する表現をしてもかまわないものだろう。自由主義においては自己決定もしくは愚行の範囲の中にあることになる。思想の自由市場(free market of ideas)の中にあるものだ。

 土下座の像は記号表現に当たるものだが、それがあらわしている記号内容はどのようなものなのだろうか。どのような意味あいをもつものだと言えるのだろうか。

 ふつうは人物の像というと立っている姿勢のものがつくられることが多い。座っている姿勢の像がつくられることはめずらしい。さらに土下座の姿勢の像というのはきわめてめずらしいものだろう。

 土下座は日本の文化だから、日本の文化に根ざしているととらえられるところがある。日本のよい文化をあらわしている。日本の文化をくみ入れて像をつくってくれている。

 過去の歴史をふり返ってみると、日本は過去に自国がしたあやまちを十分に省みているとは言えそうにない。それを忘却して風化させようとする動きがある。その動きとはちがい、十分に過去のあやまちを想起するようにして、そこから教訓を引き出す。そうすることがあってもよいものだろう。

 土下座ができるのは、自分(たち)の非を認めているからであり、それが成長につながって行く。そうとらえることがなりたつ。不毛な対立をしつづけているのであれば成長は見こめない。

 土下座の像についてをテクストととしてとらえられるとすると、たった一つの意味だけに固定されるものではないから、色々に見ることがなりたつ。その中の見かたとして、西洋でいわれる弁証法で、敵対の止揚(アウフヘーベン)が行なわれていることを示す。

 自他がお互いに敵対しつづけるのであれば、日本が自国の過去のあやまちを認めるのをこばみつづけて、自己欺まんの自尊心によりつづけることになる。不毛なぶつかり合いがつづく。それを改めて、回心を行なう。それができることは現実にはきわめてまれなことであり、ほとんど現実にはのぞめないことではある。現実論としては日本が自国の過去のあやまちをしっかりと省みることはのぞみづらいが、それをすることによってはじめて他からの信頼を日本が得られるきっかけがおきてくることになる。

 土下座の像があらわすように、かならずしも土下座にこだわらなくてもよいのはあるだろうが、日本の国に求められているのは、おもてなしのあり方だ。よき歓待をするようにして、客むかえ(ホスピタリティ)をおこなう。このさいに、敵(国)だとされるものを客としてむかえ入れるようにする。それができれば日本の益になる見こみがある。

 ことわざで言われるように、負けるが勝ち(stoop to conquer)なのがあるから、土下座をするとまでは行かないとしても、日本が過去の歴史のあやまちをしっかりと認めるようにすることが、日本の益にはたらく。そういうことはまったくありえないことではないだろう。

 参照文献 『思想の星座』今村仁司 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『知識ゼロからの謝り方入門』山口明雄(あきお) 『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン 森村進 森村たまき訳 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)