死を選ぶことを医師が手助けすることと、日本の武士道

 難病にかかっていた人が、医師に死ののぞみを伝えて、医師はそれを実行した。それに関わった二人の医師は逮捕された。

 二人の医師について、日本の武士道で人が死ぬことを助けたことに当たるから、罪を軽くするべきだということがツイッターのツイートで言われていた。日本の武士道からすると、二人の医師はそこまで悪くはないのだという。自分で死を選ぶことは日本の武士道に見られたことであり、よいことまたは美しいことだとされていた。

 難病の人の死ののぞみをじっさいに実行した二人の医師について、日本の武士道を持ち出すことはふさわしいことなのだろうか。

 人間と動物を比べてみると、人間は動物とはちがって本能が壊れている。動物であれば自分で自分の命を断つことは基本として行なわれない。動物は本能にしたがって生きて行くので、自分の生命を肯定しつづける。

 人間は動物とはちがい、自分の生命を肯定するだけではなく否定することができる。自分の生命を否定することで、自分の命を断とうとすることがおきてくる。それは動物とはちがい人間の本能が壊れていることによっているのがある。本能が壊れている点で人間は動物とはちがい自然から飛び出しているところがあり錯乱している。

 人間は動物とはちがい二本の足で立って直立して歩行する。それの意味するところとしては、動物であれば四足歩行だからそこまで前やうしろを見わたせない。人間は二本の足で立って歩けるので前やうしろをわりと広めに見とおせる。そこから人間は前(未来)やうしろ(過去)をおもうことになる。前は予測や期待で、うしろは記憶や想起だ。前を予測して不安をもつことがある。生や死の観念をもつ。予測や想起が悪くはたらくと、おもいわずらい、はからい、とらわれ、などがおきることがある。そうした人間とはちがい動物はもっぱら現在に生きていて、現在の時点に安らっている。動物は死(の観念)を知らない。

 生きることと死ぬこととはお互いに反対に当たるものだが、生きることの裏には死ぬことがあり、死ぬことの裏には生きることがあるとすることがなりたつ。日本の武士道では、自分が死ぬことをいとわないことが行なわれた。生きることと死ぬことがある中で、死ぬことがいる機会がおきたさいにはそれをすすんで選びとることがよいことだとされた。そのいさぎよさがとられた。

 日本の武士道のように、機会があったらいさぎよく死を選びとることがよいことなのかというと、どこからどう見てもよいことだとまでは言い切れそうにない。いさぎよく死を選びとるだけではなくて、ねばって生きつづけることもまた大事なことだろう。

 生きるか死ぬかで、機会があればいさぎよく死を選びとることで割り切ってしまうのが日本の武士道だ。そのように割り切れるのは、日本の武士道のあり方を信じていることによっているのがあり、それを信じていなければそうかんたんに割り切れることだとは言えそうにない。

 ことわざでは命あっての物種(ものだね)だと言われるのがある。何ごとも命があってこそ色々なことがおきてくるのであり、命がおおもとの土台になっている。おおもとの命がなくなってしまうのはよくよくのことだから、いちばん慎重にとらえられるくらいでないとならないものだろう。

 生きることを選ぶか死ぬことを選ぶかでは、そうかんたんに割り切ることができるとは言いづらい。日本の武士道のようにそうする機会があればいさぎよく死を選びとるというほどに明快なものではないだろう。

 西洋の弁証法で見てみると、日本の武士道では、機会があったさいにいさぎよく死ぬことつまりよいことだというところがあり、それは(正と反と合がある中で)正つまり合だ。じっさいの現実はどうかというと、そこまで明快なものではなく、たとえ自分の命を否定することである死ぬことがとり上げられるのだとしても、そこにその反対となる自分の命を肯定することである生きることがともなう。

 日本の武士道とはちがい、機会があればいさぎよく死ぬことが正しいというのではなく、その反対に生きて行くことが正しいことである見こみは十分にあるし、そこを切り捨てられるものではない。死ぬことがとり上げられるのだとしても、そこにはその反対である生きて行くことがつねにともなうものだ。

 日本の武士道だと、機会があったときにいさぎよく死ぬのはよいことだとされてしまうが、そのように死ぬことをよいことだとしたて上げることはできづらく、死ぬことをよいことだと確かに基礎づけることはできないことだろう。それができないことなのにも関わらず、日本の武士道だと、あたかも機会があったさいにいさぎよく死ぬことがよいことだというふうにされ、ほんとうはそうではなかったかもしれないことが切り捨てられて捨象されるところがある。

 自分の命を否定して死を選ぶことがあったとして、それは自分でそうしたのではなく他によってそうさせられたことがないではない。健康な自己決定が行なわれなかったことがありえるから、それを防ぐためには、できるだけ不健康な自己決定が行なわれないようにして行く。大事な意思決定が行なわれるさいには形式の手つづきをよほどしっかりとさせるようにしなければ誤りをおかすことがおきてくる。形式の手つづきが不十分な中では、死を求める人の求めを医師が実行に移したことがふさわしいことだったということはできづらくなってくる。

 参照文献 『対の思想』駒田信二(しんじ) 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想のゆくえ』小阪修平 『唯幻論物語』岸田秀 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)