命の選別の非正当性―現実論ではなく理念からすると正当化できづらい

 れいわ新選組に属していた政治家が、命の選別をよしとすることを動画の中で言っていた。この政治家はれいわ新選組からは除名されることになったようだ。

 いったんは命の選別を言ったことについてを政治家は謝罪していたが、その謝罪をとりやめていた。謝罪をすることをとりやめることなんてあるのかという気がした。いちど言ったことをとりやめて撤回することはあるだろうけど、謝罪をとりやめることはめずらしいことだろう。

 命の選別は、それを広くとらえればそこまでめずらしいものだとは言いづらく、新自由主義(小さい政府)などにも見うけられる。じかには言わないまでもそれをほのめかす人も中にはいる。命の選別は現実論から言われているものだろうけど、そこにはいくつかの難点がありそうだ。

 一つは国家主義によるまずさがある。国家主義による線引きが引かれてしまう。人間と非人間や、人間と動物のちがいが定められる。非人間とされたものや動物とされたものは、生きる値うちがないものだとされて、劣ったものだと見なされることになる。国家のためにならないとなれば、非人間や動物とされたものの命がないがしろにされることがおきてくる。線引きに恣意(しい)性があることは無視できそうにない。

 正義論や自由主義からすると、社会の中でもっとも弱い者のことが重んじられないとならない。正義論や自由主義では無知のベールをとることができるので、自分が社会の中でもっとも弱い者であることが十分にある。もしも自分が社会の中でもっとも弱い者に当たるのだとすると、自分の命がどうでもよいものだとあつかわれるのはとうてい受け入れることができない。自分がそれに当たることがあるのだから、もっとも弱い者に利益になるようなことが行なわれるような社会であることがいる。

 近代における社会契約論では、すべての個人の命が守られることがいる。すべての個人の命が守られているのが社会状態だろう。命が守られることを条件にして社会がなりたつことの契約を行なう。それがなりたつ前には、すべての人がたがいに争い合う自然状態(戦争状態)があるのだとされる。

 ある人の命が守られないでうばわれるのであれば、社会契約の契約が切れることになり、社会がなりたつ条件が壊れる。社会が言うことにしたがういわれは必ずしもない。すべての個人は自然的権利(natural rights)をもっているから、その権利をうばってよいはずはなく、社会はそれを満たす義務がある。

 正義論や自由主義や社会契約論で言われていることは、現実そのものではなくて虚構のつくりごとだとされる。だから十分な説得性をもっているとは言えないかもしれないが、国家というのもまたつくりごとである。共同幻想の産物だ。哲学者のテオドール・アドルノ氏は、全体は非真実(虚偽)であると言っている。

 参照文献 「ナショナリズムカニバリズム」(「現代思想」一九九一年二月号)今村仁司 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)