国の財政で、緊縮か反緊縮かと、思考の二律背反性と不安定性

 国の財政で、緊縮か反緊縮かがある。この二つのうちのどちらの政策がより正しいものなのだろうか。そのさいに、哲学者のジャック・デリダ氏の言っていることをとり上げられる。

 現代思想においてジャック・デリダ氏はこう言っているという。人間の思考には二律背反性と不安定性がある。二律背反は、あれかこれかとなることである。不安定性は時間性と暫定性だ。ものごとはまったく安定して固定しているのではなくて、変化することがあり、陽から陰へまたは陰から陽へとなることがある。消長する。変化のもとになるのが時間の流れだ。

 二律背反性があることによって、それをもとにして不安定性がおきてくるという。政治では与党と野党があるが、この二つがあって二つに分かれることによって、まったく安定して固定しているのではなく、変化することがおきてくる。勝者が敗者になったり、敗者が勝者になったりする。

 哲学者のヘーゲル氏は、主人と奴隷の弁証法を言っている。主人は奴隷に勝り、奴隷を従えているが、そのうちに奴隷はだんだんと鍛えられて行く。陶冶(とうや)されて行く。それでやがては奴隷が十分な力をつけることで主人に勝るようになって行く。

 普遍と疎外とのあいだで交代がおきるのがある。普遍とされているものは中心にあるが、辺境には疎外されたものがある。疎外されたものは力(権力)への意志をもち、中心を目ざす。疎外されていたものが中心に行くとそれが普遍となる。それがくり返される。疎外されているものはそれがひどくなると狂気にいたることがあるという。これは精神医学者の森山公夫氏による。

 国の財政においてどういうことがのぞましいのかでは、緊縮と反緊縮があるが、どちらかだけが絶対に正しいのだとは言えそうにない。よいとされている政策であったとしても、悪い結果をもたらすことがないではない。白と黒に完全に分けられるとはいえないから、灰色のていどのちがいにすぎない。

 国の財政についてだけではなくて、ほかのさまざまな政策においても、白と黒に完全に分けられることはそう多くはないものだろう。憲法の改正についてでは、改正するのが絶対に正しくて、改正しないのは絶対にまちがっているのだとは言えそうにない。改正するかしないかの二つの立ち場があるわけだが、どちらかだけが完全に正しくて、どちらかだけが完全にまちがっているとは言い切りづらく、割り切りづらいものである。

 思考には二律背反性や不安定性があるのだから、それらをくみ入れるようにするとすると、国がなすべき政策を絶対化しないようにして、相対化するようにしたほうがやや安全だ。相対化するのではなくて、絶対にこうするべきだということになり、政策が教義(ドグマ)になって教条化すると、これしかないということになり、まったく安定したものとすることになる。そこに含まれている数々のまちがいや穴などを隠ぺいすることにつながってくる。

 参照文献 『『嵐が丘』を読む』川口喬一(きょういち) 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『気の世界』有馬朗人(ありまあきと)他