失言をした自党の政治家を除名するべきなのかどうか

 れいわ新選組は、命の選別がいるという失言を言った自党の政治家を、党から除名するかどうかを検討しているようである。外野からの声としては、許容できないくらいの失言なのだから、除名をするべきだという声があげられている。このことについて、失言をした自党の政治家を除名するべきなのだろうか、それともしないようにするべきなのだろうか。

 あらためてみると、与党である自由民主党は、自分たちに都合の悪くなった自党の政治家をかんたんに切り捨てているのがある。それまでは自民党に属していた政治家を、自民党に都合が悪くなったらとかげのしっぽ切りのように切り捨てている。それでもう自民党とは何の関係もないとしてすませている。

 自民党のように、自分たちに都合が悪くなったら、とかげのしっぽ切りのようにかんたんに切り捨てることは、それはそれで正しいことだとは言えそうにない。そうすることによって自民党には益にはたらくのだとしても、党としての責任のとり方としてはよいものではない。

 れいわ新選組では、失言をした自党の政治家をすぐに除名するのではなくて、そのまま属させることも言われているようだ。そのあり方は、自民党のような無責任なとかげのしっぽ切りをしないことだとも見なせるところがないではない。

 失言をした政治家は、命の選別をよしとしているが、その思想について、そのどこが悪いのかを探って行くようにする。たんに失言をした政治家にレクチャーを受けさせて思想を変えさせるだけではなくて、その思想のどこがどう悪いのかを明らかにして行くこともまたまったく益にならないものではないだろう。

 命の選別をよしとする思想は、必ずしもめずらしいものではなくて、広い意味でいうと新自由主義(小さい政府)なんかにもそれが見うけられるのがある。新自由主義をよしとする人の中には、じかには言わないまでも、命の選別をにおわせている人が見うけられる。ちなみに、自民党のいまの政権には新自由主義が見うけられる。自民党およびいまの政権には、命の選別を否定するような社会民主主義(social democracy)がはなはだ弱くこころもとない。分断をよしとしている。そういう点で、命の選別をよしとする思想はそこまでめずらしいとは言えそうにない。

 むかしの日本の離島では、集団の全員に十分に食料を与えることができなかったので、命の選別が行なわれていたという。集団にとつぜんだし抜けに集合がかけられて、決められた場所に人々がいそいで集まる。急いでかけつけられた人は決められた場所の一定の枠(囲い)の中におさまれる。おくれた人は枠の中からはみ出る。おくれて来たことで枠からはみ出た人は役に立たない人だということで殺された。排除の暴力がふるわれた。定期的にそれを行ない、食料の不足を何とかしていた。いまから見るとそういう野蛮で残酷なことが行なわれていたそうだ。

 むかしの日本で行なわれていたことで、ほかには、胎児を宿している妊婦を、みぞが空いた高い岩の上に連れて行って、そこを飛び越えさせたという。体力のある妊婦はみぞを飛び越えられたが、体力のない人は飛び越えられずみぞの下に落下した。それで命を落とした。体力がある人とない人とをふるいにかけるしかけだった。

 れいわ新選組では、失言をした自党の政治家をかんたんには除名せずに切り捨てないようにすることが言われている。それはそれで見かたによってはまったく悪いことだとは言えないものかもしれない。そのかわりに、失言をした政治家を自党で抱えこみつづけることになるから、れいわ新選組の党にとっては益にならないところがあるのではないだろうか。党にとっての呪われた部分や乱雑さ(エントロピー)を抱えこみつづけることになるとすると、それが党に不利益にはたらくおそれがある。自民党では、党の上にいる政治家が失言をしても平気で開き直っていてなぜか許されているのもあるにはあるが。

 参照文献 『私の海彦山彦 [光る話]の花束六』立松和平(わへい)編 『現代思想を読む事典』今村仁司