命の選別がいるという政治家の発言にたいして批判の声がおきている

 高齢者には命の選別が必要だ。日本は情緒によりすぎているので、そこは冷徹にやらないとならない。れいわ新選組に属する政治家が動画でこう言ったのだという。これにたいして、おかしい発言だということで色々な批判が投げかけられている。

 日本の社会では高齢化が進んでいて、超高齢社会になっている中で、国の財源が苦しい。れいわ新選組の政治家が言っていることは、そうした文脈の中でのものかもしれない。

 なぜれいわ新選組の政治家は、高齢者には命の選別が必要だというような発言をすることになったのだろうか。この発言は政治の公正さ(ポリティカル・コレクトネス)からしてよくないもので、失言に当たるものだが、それがどうしておきることになったのだろうか。

 理想論と現実論の二つに切り分けられるとすると、政治の公正さは理想論だ。その理想論をふまえながら、政治におけるものごとを語って行くことがいる。そうしないと政治の公正さを欠くことを言ってしまうことがおきてくる。政治の公正さを欠くことを言ってしまうと、その文脈において正しくないことになってくるから注意が必要だ。

 ポリコレ棒を振りまわすなんていうことが言われるが、そう言われるのとはちがった見かたができるのもある。日本の社会では政治の公正さが西洋の国に比べて弱い。建て前よりも本音のほうがとり立てられている。本音を言うことのほうが価値があることなのだとされている。建て前と本音のあいだの緊張感があればまだしもよいが、そうではなくて本音だけをたれ流してよしとするのが目だつ。

 理想論や建て前は、お花畑のようなものだとして、現実論からすると馬鹿にされるのがあるけど、あんがい馬鹿にはできないものだ。現実をいくらくわしく見ていったとしても、そこから価値は出てはこない。哲学の新カント主義ではそう言われている。事実と価値を区別する新カント主義からすると、現実論からは価値は出てこないから、理想論や建て前などによって基本の価値をおさえておくことは有益だ。

 れいわ新選組の代表の山本太郎氏は、失言をした政治家を除名しないのだという。失言で言われていることは党の理念に反するものではあるが、除名はしないで、レクチャーを受けてもらう。それで学んでもらうようにする。

 山本太郎氏は失言をした政治家を除名しないようだが、これには部分的にうなずけるところもあり、うなずけないところもまたある。失言をした政治家にレクチャーをして学んでもらい考え方を変えることをうながすのは、もともとのまちがった思想を許すことになってしまいはしないだろうか。もともとまちがった思想を持っていてもよいのだということになりはしないだろうか。

 人がもともと持っている思想を、レクチャーを受けることくらいでたやすく変えることができるのかがややいぶかしい。それだったら、国の財政で言えば、レクチャーを受ければ緊縮派を反緊縮派にできたり、反緊縮派を緊縮派にできたりすることになる。信念といえるくらいの思想を持っているのであれば、レクチャーを受けたくらいではそうかんたんには変わらないだろう。

 こうあるべきだというのが理想論だが、その理想論をきちんとふまえられていれば、出てこない(出てきづらい)はずの失言がある。れいわ新選組の政治家の失言は、ほんらい理想論をしっかりと身につけていれば出てはこないまたは出てきづらいはずの失言だと受けとれる。理想論をしっかりと身につけていないことから失言をしたことがうかがえるので、そこからおしはかれることとしては、れいわ新選組において、党の理念がないがしろになっているのがあるのではないだろうか。理念がいいかげんになっている。ゆるさがある。

 もしもれいわ新選組が、党として理念を重んじているのであれば、失言をした政治家にたいしてきびしく対応して除名をするくらいのことをするべきではないだろうか。絶対に除名をしろとまでは言えないかもしれないが、レクチャーを受けて学んでもらって思想を変えてもらうというのは、ちょっと甘い対応かなという印象だ。れいわ新選組とはちがうが、与党の自由民主党なんかでも、許しがたい失言をいく度もする政治家が上の地位についていて、平気でふんぞり返っていばっているのはあるが。そういう政治家および党には、信頼が置けないし、価値をすり合わせづらい。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや)