錯乱や狂いとしての人間とその集団―生の欲動(エロス)と死の欲動(タナトス)

 狂っているのかまともか。この二つの二分法があるとすると、人間はそのどちらに当たるのだろうか。人間と動物とを比べてみると、人間は狂っていて、動物はまともさがある。人間は戦争をして殺し合いをするが、動物はそれをしない。

 人間は本能が壊れているから、動物のように本能にしたがった自然な生き方ができない。学者の岸田秀氏はそう言っている。人間は本能が壊れているために、文化などをつくり出してそれを埋め合わせる。何かの観念の物語にすがり、それを自我の支えにする。その物語に当たるものに国家やお金などがあるが、それらは幻想といえば幻想だ。物語には穴が空いていて、穴にフタがされておおいがされている。

 幻想では思想家の吉本隆明氏は自己幻想と対幻想と共同幻想があると言っているという。人間はこうした幻想にたよっていて、それを抜きにしては生きて行きづらい。自分という物語や恋愛や家族の物語や国家の物語などがある。それらはまったく非現実のものだとは言い切れないとしても、現実と虚偽が合金のようにない混ぜになっているところがある。

 人間とはどういうものなのかは色々に言われるのがあるが、その中で人間は錯乱している(ホモ・デメンス)とされるのがある。ていどの差こそあれ多かれ少なかれ人間は錯乱している。

 錯乱を広い意味でとらえられるとすると、人間は可びゅう性をもつ。まちがいのない絶対の正解を得づらく、大きいか小さいかはともかく、まちがいをしでかす。限定された合理性しかもっておらず、合理性に限界がある。盲点をかかえている。

 人間は錯乱しているのがあり、その度合いがある。少し狂っているかとても狂っているかがあって、狂いがひどくなって悪く出ると死の欲動(タナトス)に向かう。人間には生の欲動(エロス)と死の欲動があるとしたのが精神分析学のジグムント・フロイト氏だ。

 一人の人間が生の欲動と死の欲動をかかえているのとともに、集団にもまたそれがあるのだという。個人と集団が入れ子の構造になっていて、部分と全体が相似のフラクタルになっている。部分と全体がたがいに照応して呼応し合う。錯乱や狂いもまた個人と集団でともにそれをかかえている。とりわけ集団の死の欲動や錯乱や狂いに目を向けたい。まとまった集団になると人は理性を失い狂いやすいところがある。集団に酔ってしまう。

 人間の集団が死の欲動に向かうと戦争になることがある。集団の錯乱が大きくなり狂いが強くなることによっている。それで戦争が終わって、それまで錯乱していたことに気づけたときには反省することができる。一時だけ覚めて理性の反省ができる。その反省は一時のものにすぎず、ことわざで言われるのど元すぎれば熱さを忘れるになりやすい。くり返し想起しつづけないとたやすく忘却してしまう。

 先週の日曜日に行なわれた東京都の都知事選では、排外主義をかかげる立候補者が十七万票くらいを得たのだという。どのような立候補者に票を入れたとしてもそれはその人の自由だからよいのはあるが、排外主義をかかげる立候補者に十七万票もの票が集まるのは、日本の社会の集団の中に錯乱や狂いがやや強まっているのを示しているかもしれない。集団に死の欲動がおきているところがある。

 選挙で票を入れるのは、絶対の正解があるわけではないから、どういう票の入れ方をしたとしても、絶対の正解だとか絶対のまちがいだとかとは言えそうにない。正しいかやまちがいかを単純に見てしまうのはいけないが、生の欲動と死の欲動があるとすると、生の欲動への人気や支持よりも、死の欲動つまり破壊への人気や支持がおきてしまう。そういう見かたもまたなりたつ。

 色々な見なし方ができるのがあるから、楽観論で見なすこともできるのはある。その楽観論とはちがう見なし方ができるとすると、日本の社会の集団の錯乱や狂いがやや強まっているところがあり、その活力が国家主義に向かっているのがある。錯乱や狂いがさらによりいっそう強くなれば、国家主義に向かうのがより大きくなって、自由主義が損なわれることになるだろう。いまでもすでに自由主義は損なわれているのがあるが、決定的にそれが損なわれることになると、いよいよ錯乱や狂いが全面に開花する。

 いまはまだ日本の社会の集団の錯乱や狂いが全面に開花しているとは言えないだろうが、全面の開花が一〇だとすると、いまはどれくらいの度合いに当たるだろうか。度合いを〇にすることはできないにしても、できるだけその度合いを小さくできればよいし、それを小さくするための知恵が自由主義立憲主義などだ。

 自由主義立憲主義は中世の西洋の宗教戦争で宗派どうしがたがいに血みどろの殺し合いをしたことの経験から来ているとされる。死の欲動や錯乱や狂いが集団で強まってそのままつっ走っていったことの失敗があって、それをもとにしているのが自由主義などだ。それらが損なわれてしまっているのがあるから、集団の錯乱や狂いが強まることの歯止めがかからなくなっていて、集団の錯乱や狂いの活力があばれ出すことがおきないではない。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『唯幻論物語』岸田秀 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『社会をつくる「物語」の力 学者と作家の創造的対話』木村草太 新城(しんじょう)カズマ