ふつうの日本人とか、ふつうに日本の国を愛するというさいの、ふつうということ―ふつうさとふつうでなさ

 ふつうの日本人とか、ふつうの愛国者と言われる。このさいに、ふつうということが言われるが、そもそもの話として、日本という国そのものがふつうではないということもあるのではないだろうか。

 そうしてみると、ふつうではない日本の国においてのふつうさというのはいったいどういうことになるのだろう。

 日本の国にはおかしいところが色々とあるように見うけられる。そういうおかしいところがぜんぜんなければふつうの国と言ってもよいかもしれないが、おかしいところが色々にあるのであれば、ふつうではないのが日本の国だと言ってもおかしいことではないだろう。

 日本の国のことを、ふつうの国と言ってもよいし、特別な国だと言ってもよい。ふつうの国ではないと言ってもよいし、特別な国ではないと言ってもよい。それらのうちのどれにも当てはまるのだといえば当てはまるのがある。

 自分たちの文化は常識的で、ほかの国の文化は非常識だというのがあるが、これは自分たちの国の文化をもとにしていることによる。自分たちの国の文化をふつうだと見なしていることによるから、客観によるものではない。自分たちの国の文化をまったく抜きにして、ただたんにふつうだとかふつうではないというのではない。

 ほかの国の文化からしたら、自分の国の文化は非常識に映る。それはほかの国の文化をもとにしていることによる。このことをくみ入れられるとすると、自分たちにとってふつうであると見なせることであったとしても、それを絶対化できるとは言えそうにない。視点の置きどころを変えて見れば、ふつうなことがふつうではなくなることがあるし、ふつうではないことがふつうになることがある。

 日本の国を愛するということを見てみると、日本の国を愛するということがそもそもふつうではないということも言えないではない。もしもこれがまったくふつうのことであるのだとすれば、それに特別な意味あいはおきてこないのではないだろうか。まったくふつうのことで、そこに特別な意味あいがないのであれば、とくにことさらに言及することはいりそうにない。いちいち、いま自分は空気を吸っていますとか、いま自分は生きていますとかと(特別な状況を除いて)ほかの人に告げることがいらないのに等しいものである。

 生きていることはとりたてて言うほどのことではなくてふつうのことだと言ってしまったが、これは改めて見るとふつうではないとも見られる。生きていることは宝くじの一等が当たるよりもずっとまれなことだという。学者の木村資生(もとお)氏によると、何かの生きものに生まれてくるのは確率からすると宝くじの一等が一万回ほど連続で当たるくらいのもので、人間に生まれてくるのはさらにまれだというから、それをくみ入れられるとするとふつうなことではない。

 関係主義から見てみられるとすると、ふつうであるというのは、ふつうではないことがあってはじめてなりたつ。関係主義では関係の第一次性が言われて、関係が先だつのだとされる。ふつうであることがえらくて、ふつうではないことがえらくはないとは言い切れず、その二つの優と劣の見なし方を反転させることができることがある。ふつうであってもとくに価値はないことがあるし、ふつうではなくても価値を持つことがある。

 ふつうの日本人とか、ふつうに日本を愛するというさいには、ふつうと言っているけどじつはふつうではないということがあるから、ふつうかふつうではないかは定かとは言い切れそうにない。まったくもって自明だとは言い切れず、自分はふつうだと思っていたとしても思いちがいをしているだけでありじっさいにはふつうではないということがあるし、みんながみんなふつうだと思っていたとしても本当はふつうではないということがなくはない。

 日本の国がふつうだとははっきりとは言えないのがあるし、ふつうではなかったとしても必ずしも悪いとはかぎらず、またふつうだったとしてもそれがよいとも限らない。ふつうだとしていてもふつうではないことがあるし、ふつうではないとしていてもふつうなこともまたあるだろう。

 これがふつうなのだということがあるとしても、それが多数の人がそうしているということなのであれば、多数の人がまちがっていることがあるから、ふつうだということをもってしてまったくもって正しいことだとは言い切れそうにない。ふつうではないということが少数に当たるとしても、それがまちがっているとは言い切れないから、それが承認されることがあってもよいことだろう。

 参照文献 『実践トレーニング! 論理思考力を鍛える本』小野田博一 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編