夜の街という言い回しは、何をさし示しているのだろうか―夜の街の記号表現とその記号内容

 夜の街で感染がおきている。東京都知事は夜の街が悪いのだということをにおわせているようである。このさいの、夜の街という言い回しは改めてみると適したものなのだろうか。

 新型コロナウイルスは夜だけに活動しているのではない。ツイッターのツイートではそう言われていた。たしかにウイルスは二十四時間いつでも活動しているものだから、夜だけを選んで活動しているのではないだろう。

 夜の街の言い回しを改めて見てみると、夜と街の二つからなりたっている。この二つはどちらもあいまいさがある。夜とは何なのか、街とは何なのかがはっきりとしているとは言えそうにない。

 夜は朝や昼に比べて暗い。ウイルスは目には見えないが、夜は暗いからなおさら怖さが倍加する。ウイルスの得体の知れなさを、夜の暗さがうながす。そういう印象がおきてくるのがある。

 夜は暗いから何となく不安な印象があるが、それをかっこに入れられるとすると、朝であっても決して安全とは言えないし、昼であってもそうだ。朝の街が安全とは言い切れないし、昼の街もまたそうである。朝の街であっても感染がおきるし、昼の街であってもそうだから、そこについてを見て行くことがいる。

 時間帯と場所をもっと細かく区切って、どこの時間帯のどこの場所で感染がとくにおきやすいかをはっきりとさせて行く。どこの時間帯のどこの場所で何が行なわれていて、それのどこにまずいところがあって、それをどう改めればよいのかをしめす。

 ここがとくに悪いのだということで、それを夜の街ということに集約させるのだとしても、夜の街ということが何となく得体の知れないものに受けとれるのがある。得体の知れないままにしておこうというのだと、はっきりとはしないままになってしまうから、そこをはっきりとさせるようにしたい。

 語には大きいのから小さいのまで色々な大きさがあるのをくみ入れると、夜の街の言い回しは大きめなのがある。語の大きさをもっと小さくするようにして、色々なものをいっしょくたにしてしまわないで、個別にして行くようにする。個別に細かく認知するようにして、それぞれを評価して、こういうふうにしたらよいというふうに指令を出す。

 適したやり方になるようにするには、一つずつを個別に見ていったほうがやりやすい。色々なものをいっしょくたにして、それらを一まとめにする形で夜の街の言い回しを用いて、夜の街が駄目なのだとすると、認知が大ざっぱになり、評価が大づかみになるから、正確な指令を出しづらい。

 夜の街という形でそこに言及するのであれば、責任をもって細かく見て行くようにして、たんに夜の街にたいして責任をなすりつけるようではないようにしたい。それにあわせて、夜の街だけをとり上げるのではなくて、朝の街はどうなのかや昼の街はどうなのかもとり上げるようにして行く。二十四時間のうちすべての時間帯をまんべんなく見るようにして行き、時間帯にもれが出ないようにしたい。

 時間帯のうちでとくに夜だけをとり上げるのだと、とくに夜ということを有徴(ゆうちょう)化することになる。朝と昼は無徴(むちょう)化される。印(mark)がつけられているものとつけられていないもののちがいだ。記号論ではそのちがいがあるとされるが、その印のつけ方が適したものなのかどうかを見てみたい。夜から朝や昼になったらとつぜんに街が安全になるのではないだろうから、感染の点から言って、夜だけではなくて朝や昼の街のあり方の中にもまずいところはあるのではないかとおしはかれる。

 参照文献 『自分で考え、自分で書くためのゆかいな文章教室』今野真二(こんのしんじ) 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『語彙力を鍛える 量と質を高める訓練』石黒圭