日本人と韓国人との交際と、自然主義の誤びゅう

 日本人の芸能人が韓国人と交際をしていることがわかったという。そのことにたいして批判の声がおきていた。日本人の芸能人が韓国人と交際するとことで、日本人の血の中に韓国人の血が入るからだめなことなのだということが言われていた。

 日本人の芸能人が韓国人と交際することはよくないことに当たるのだろうか。芸能人にかぎらず、日本人が韓国人と交際することもまた駄目なことなのだろうか。

 人どうしが交際をするのは、個人どうしが関わり合いをもつことであり、国がどうかや民族がどうかはもっとも重要なことだとまでは言えそうにない。

 自分ではないほかの人はすべてが他人だ。他人は自分とはちがう文化をもつ。同じ日本人であったとしても、それぞれの日本人が身につけている文化はそれぞれでちがう。その文化のちがいの延長線上にちがう国や民族の人がいるのだと言えるのがあるから、日本人か韓国人かということではっきりと線引きができるというよりは、ていどのちがいということもまた言えるだろう。

 韓国人と交際するのは駄目なのだとしてしまうと、何々である(is)から何々であるべき(ought)を導くことになる。これは自然主義の誤びゅうだ。ナチス・ドイツでは、ユダヤ人だから駄目なのだということで民族のせん滅(ジェノサイド)がはかられた。国や民族を一くくりにして駄目なのだとしてしまうと、ナチス・ドイツユダヤ人にたいしてやったことと同じことをすることになりかねない危なさがある。

 価値についてを見てみれば、日本人だからといってみんながよい人ばかりではない。悪い人やよくない人もいっぱいいる。全員がよい人だとは言えないのがある。悪い人やよくない人も色々にいるのに、そのことを捨象して切り捨てて、日本人はみんながよいのだとするのはまちがったことだろう。日本人だということは、それだけをもってすれば、とくに何を意味するものではないし、その中にさまざまな人がいるというのが言えるくらいだ。それは韓国人についてもまたそうだろう。

 範ちゅうと価値を切り分けて見ることができるから、日本人の範ちゅうに当たるからよいとはまったく言えないし、韓国人の範ちゅうに当たるから駄目だとも言えないものだ。日本人の範ちゅうの中にも悪い価値の人がいるだろうし、韓国人の範ちゅうの中にもよい価値の人がいるから、ぜんぶを十把一からげに言うことはできづらい。それぞれは十人十色だ。

 日本人の血の中に韓国人の血が入るということでは、何々人の血というのははたしてあるのだということが言えるのだろうか。血というのは純粋なものではなく雑種のものだ。色々なものが混ざり合っている。純粋な血があるとするのは虚偽に当たる。

 人間の血ということは言えたとしても、何々人の血というものがまったく純粋なものとしてあるのだとは言えそうにない。かりに純粋な日本人の血があるとするにしても、それがあったところでそれに何かよい価値があるのだとは言いがたい。それに日本は少子化と高齢化がどんどん進んでいるから、近いうちにそれは消えてなくなることになるおそれが低くない。純粋なものは虚構のものだし、よい価値をもっているとは言い切れないし、きわめて不安定でぜい弱なものである。

 日本の芸能人がどのような人と交際をしようと、それはその人の自由に属することだろう。同じ日本人となら交際してもよいが、他民族とは交際してはいけないというのは、守るべき義務の水準を高くしすぎである。自由主義からすると守るべき義務の水準はできるだけ低いほうがよくて、最低限の義務を守っているのであれば、あとのほかのことは個人の自由な決定に任されていたほうがよい。へんに国家主義をもち出して守るべき義務の水準を高くすることは、個人の自由がせばまることになるから反対だ。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『トランスモダンの作法』今村仁司