野党の議員をまとめることと、野党の第一党の党首の力量とその限界―政治における協調と対立

 政治家である枝野幸男氏への批判の声が言われていた。野党の第一党の立憲民主党の党首なのが枝野氏だが、枝野氏は野党の議員をうまくまとめられていない。まとめ切れていない。きびしい声がツイッターのツイートでは言われていた。

 枝野氏にたいするきびしい声は、当たっているものだということが言えるのだろうか。少なからず当たっているところがあるかもしれないが、ややちがった見かたもまたなりたつのがあるかもしれない。

 野党の議員をうまくまとめることができれば、一つの大きな力になる。それで与党にまともに対抗することができるようになる。だからまとめるのは大事ではあるだろうが、そのまとめ方がどうかがある。たんにまとまりさえすればそれでよいとはなりづらい。枝野氏はそこを慎重に警戒しているのではないだろうか。

 まとまるということのもつ含意としては、まとまりさえすればそれでよいというのだけではなくて、駄目なまとまり方もまたあるはずだ。たんに数が寄り集まるだけのような駄目なまとまり方を避けることもまた大事になってくる。

 政治には協調と対立があるとされる。このうちでまとめるのは協調に当たるものだ。協調だけがあったら政治ではないから、対立がおきることになる。野党の議員をうまくまとめられていないのは、対立化がおきていることをあらわす。そう見なすこともなりたつだろう。

 みんなで協調して野党が一つにまとまるのは、野党の議員のみんながすべて利他の行動をとらないとならない。だれかが利己の行動をとると、うまくまとまらなくなってくる。統治においてはそう見なせる。与党に対抗するというのを主となる大きな目的にするのであれば、その目的をみんなが共有し合い、そこからずれた利己の行動をとらないようにしないとならない。

 枝野氏に野党の議員をまとめる力がないのだとすると、それは枝野氏に原因を帰属(特定)させることになる。そのほかの見なし方としては、枝野氏にではなく、その外部に原因を帰属させることもなりたつ。外部の状況に原因があるとすれば、それぞれの議員で考え方のちがいがおきてしまっていたり、協調ではなくて対立がおきていたり、目的が共有されていなかったり、共通する目的があったとしても利他ではなくて利己の行動をとる人がいたりすることがあげられる。

 野党の議員がうまくまとまれていないのを、矛盾としてとらえることができるとすると、その矛盾を認知することがなりたつ。矛盾があるからよくないのか、それともあるていど矛盾があることはしかたがないことなのかと色々に見られる。

 矛盾がないのがよいのだとしても、矛盾が引きおこされることになるような動機づけがおきることがある。その動機づけがあることによって矛盾が引きおこされることになる。矛盾が引きおこされることになるのは、一人で何かのものごとを決めるのではなく、多くの人々によって何かを決めることにまつわることだ。

 みんなが同じ主張だったら矛盾はおきないが、ここはゆずれないというところが人それぞれによっておきてくることから矛盾が引きおこされてくる。それぞれの人の主張どうしが食いちがう。そこを無理やりに力づくでまとめ上げることはなかなか困難だ。

 たとえ枝野氏ではないほかの人であったとしても、うまく野党の議員をまとめることができるのかはいぶかしい。ただたんに数を寄せ集めて、与党に対抗できさえすればそれでよいとは必ずしも言い切ることができないのがある。一時だけ大きく盛り上がったとしても、それはすぐに冷めてしまう熱かもしれないから、そうした熱はほんとうの意味で強いものではない。

 一過性の熱によるのは長い目で見たら強いものとは言えないから、一時だけ盛り上がってもしかたがないといえばしかたがない。はではでしいところとは別に、地道で目だちづらいが意味のある行動ができることのよさや力もまた大事なことだろう。

 参照文献 『現代政治理論』川崎修 杉田敦編 『こうして組織は腐敗する 日本一やさしいガバナンス入門書』中島隆信 『社会的ジレンマ山岸俊男 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司 宮元博章