不適切な表現に税金を使ったとされることから、愛知県知事は知事を辞めるべきなのかどうか

 おやめください。愛知県知事に向けてそう言われているのがあった。愛知県知事を辞めさせる運動がおきている。

 愛知県では芸術や文化のもよおしが行なわれて、その中で天皇のことを批判するような表現があつかわれた。その表現に税金が使われたことから、このもよおしを許した愛知県知事は辞めるべきなのだという。

 天皇のことを批判する表現をふくむもよおしをよしとした愛知県知事は、知事を辞めることがいるのだろうか。かりに愛知県知事が知事を辞めさえすれば、それでものごとはすべてうまく片づくことになるのだろうか。

 おやめくださいということで、愛知県知事を辞めさせようとするのではなくて、表現にまつわる議論を少しでも深めて行くようにするのはどうだろう。たんに愛知県知事を辞めさせるようにして、辞めさせられたらそれでうまく行ったとするのではなくて、表現にまつわる議論を深めて行くようにしたほうが、みのりのあることにつながることが見こめる。

 おやめくださいということで、かりに愛知県知事を辞めさせることに成功したとしても、どういう表現がのぞましくてどういう表現がのぞましくないのかについての議論は深まることにはつながらない。だから、表現にまつわる議論を深めて行くようにする点においては、愛知県知事を辞めさせることは意味があるものだとは言えそうにない。辞めさせたところで表現の是非についての理解がより深まって行くものではないだろう。

 天皇のことを批判するような表現が許されるのかどうかについては、さまざまな見かたがあるだろうが、あってよいものなのではないだろうか。というのも、天皇がまったく善人だということは認めづらいのがあるからだ。健全な社会というのは、お上を批判できる社会だ。そう言うことが言えるとすると、お上である天皇のことを批判することがあってもよい。

 いまの天皇陛下や平成の天皇には罪はないが、昭和の天皇には戦争についての罪があるのだと言わざるをえない。昭和の天皇は戦争についての罪の責任をとっていない。昭和の天皇にたいして批判をするのはあってもよいことで、あったほうがよいことだと見なしたい。昭和の天皇を批判する人がいたとすると、それは批判する人が悪いのではなくて、昭和の天皇に悪いところがある。それを、批判する人が悪いのだとするのは、昭和の天皇に悪いところがあるのを、ほかの人になすりつけることになる。

 芸術や文化の表現は、だれがどう見てもこういう意味だというように、一義に意味が決まらないことが少なくない。見る人が試されるところがあることがある。表現された作品は一つの記号表現だが、それをどのように受けとるのかは、さまざまな受けとり方ができることがある。色々な記号内容を含みもつ。

 一つの記号表現について色々な記号内容がなりたつことがあるから、こういうふうにしか見られないとは言い切ることはできそうにない。色々な視点がなりたつことがあるから、たった一つの視点だけが正しいとはならないことがある。

 表現されたものには一つだけではなくて色々な面があるとすると、その色々な面をくみ入れられる。表現されたものをテクストとしてとらえることがなりたつ。テクストとしてとらえられるとすると、そこに複合性があると言えるのがあり、一つの面だけに還元できないのがある。

 表現された記号表現は客体に当たるが、それを主体がどのように見なすのかがある。客体についてを主体が見なすさいに、主体によって意味づけや価値づけされることになる。色々な主体がいて、色々な意味づけや価値づけをすることになるから、それによって見なし方が変わってくることがある。それぞれの主体はまったく客観に客体を見なしているとは言えないところがあるから、かたよりがあることはまぬがれそうにない。

 どういう表現が許容されて、どういうものが許容されないのかは、人によってちがいがあるものだろう。自分が許容できないものはあってはならないとかそこに税金をかけるべきではないというのなら、色々なことについて、おやめください、と言いたいところだ。愛知県知事にたいしてそう言いたい人はいるのはあるのだろうが、ほかの色々なものについて、おやめくださいと言いたい。

 おやめくださいと言って、やめさせられるものならやめさせてみたいのはあるが、たとえ許容できない(しづらい)ことが言われているとしても、のみこんでしまっているのはある。政治家では、許容できない失言が言われても、何ともならずにすんでしまっているのがある。報道機関では、お上を持ち上げることが行なわれていて、戦時中の大本営発表のようなことをしているが、それでも放送はそのままつづけられている。

 人それぞれによって、許容できるものとできないものがあるから、かりに許容できない表現があるのだとして、それがほんとうに客観に許容されるべきではないことなのかどうかを改めて見てみたい。たいていは客観とは言えなくて、そこに主観が入りこんでいるのはまぬがれそうにない。まったくもって客観だとは言えないことがしばしばあるから、色々なちがう見かたもいちおうくみ入れてみるようにしておきたい。

 表現の自由ということで、できるだけ多くの表現が許容されたほうがよいというのにもまた大きな価値があるのはたしかだ。その中で、許容されるべきではないと言えるものや、人それぞれによって許容できることとできないこととのちがいがある。そうしたちがいがある中で、どれが一番ふさわしいあり方なのかはいちがいには言うことはできづらい。許容されるべきではないものがあるとしても、表現の自由とのかね合いがあるから、それともいちおうつき合せてみることがいる。

 参照文献 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)