高い地位の公人(政治家や役人)にたいして検察は甘いあつかいをしているように見受けられる―きびしくすればするほどよいとは言い切れないのはあるが

 有権者に香典としてお金を配る。それで票を買収した疑いにかけられていたのが与党である自由民主党の前経済産業相だ。前経産相東京地検特捜部によって調べられていたが、起訴されないことになった。前経産相は香典のほかにもカニやメロンなどを有権者に配っていたとされる。

 地検は前経産相の起訴をしないことを決めたが、この決定はふさわしいことだと言えるのだろうか。地検によると、起訴しないことを決めたわけとして、香典をわたしたのはあくまでも例外に当たることや、大臣の地位を辞任していることや、謝罪の会見を開いたことをくみ入れたのだという。

 地検が起訴をしないことを決めたわけとして、前経産相が大臣の地位を辞めたことをあげているが、これはちょっとうなずくことができそうにない。というのも、前経産相にかけられていた買収の疑いは、一人の政治家としてのものであって、大臣の地位についているかどうかは関わりがないことなのではないだろうか。なので、大臣の地位についていようともいなくとも、それは抜きにして、一人の政治家としてとりあつかうことがいる。

 かりに大臣の地位についていることをくみ入れるのだとしても、そうであるのなら、よりきびしく見なすことがいるものだろう。大臣の地位にはないふつうの政治家よりもいっそうきびしく見るべきである。公人で上の地位にいる人間は、建て前としてはよりきびしく自分を律することが求められる。上の地位にいる人間は、よりしっかりとしていなければならないのだから、下の人間と同じかそれよりもより甘くあつかわれるのはおかしいことだとも言える。

 前経産相が大臣の地位を辞めたことを、地検は起訴するかどうかを決めることにくみ入れてしまっているが、これはくみ入れるのにふさわしいことではないように見うけられる。だからそれをくみ入れないようにしたい。前経産相は会見を開いて謝罪したのがあるようだから、それをくみ入れるのだとしても、謝罪をすれば公職選挙法に反しても許されるのかということになってくる。

 香典のみならず、カニやメロンなどを有権者に配っていたのがあるとされ、選挙で票を得るためにお金や物品を配っていたのはまぬがれそうにない。これは日本の社会に見られる互酬(ごしゅう)性のあり方が色濃く出ているものだ。お金や物品などの便益を与えることで、その見返りを得ようとする。便益のやり取りによって関係が形づくられる。ていどの低い政治のあり方である。

 互酬性では与えて得てのやり取りをし合う。与えられっぱなしでは、得ているほうが負い目を負う。その負い目を何とかするためには、得ているほうが与えるほうに回り、それまでに得ているのを返すことがいる。それでつり合いがとれるようになる。交換や贈与のやり取りだ。日本の社会ではこれが盛んだとされる。いまでは昔ほどではないだろうけど、たとえば毎年のお中元やお歳暮のやり取りがその代表となる一つだ。互酬性による交換や贈与の視点によって色々なことの説明がつく。

 日本の政治で見られる互酬性については、政治家だけではなくて、政治家にたかる有権者もまたいるから、政治家と有権者のあいだで悪い形でもちつもたれつのようになってしまっているのがあるかもしれない。

 首相にまつわる疑惑の桜を見る会では、首相の地元の後援会の人たちがおおぜい東京都にまねかれた。高級ホテルのホテルニューオータニで前夜祭が開かれた。桜を見る会ではほかの人たちよりも後援会の人たちを優先して優遇した。これは、与えて得ての関係である互酬性の点から見ることがなりたつ。

 日本の政治で見られる互酬性では、政治家だけが悪いとは必ずしも言い切れず、政治家にたかる有権者がいるとすると、そこにもまた悪いところがあり、悪い相互作用がある。お互いの悪さがあるのだとすると、これまでに引きつづいてきた日本の悪い政治の風土が改まればよい。

 前経産相にたいする地検のあつかいは、ずいぶん甘いようにも見受けられる。きびしくすればするほどよいとは言い切れないのはあるが、いくら前経産相が謝罪の会見を開いたのだとはいっても、ほんとうに謝罪の気持ちをもっているのかはたしかではなく、ほんとうに反省をしているのかもまたたしかだとは言えそうにない。その点について疑うことも可能だ。そこを疑わずに信じたのが地検だが、下にきびしくて上に甘いあり方になっている気がしてならない。

 参照文献 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『女ざかり』丸谷才一