緊縮と反緊縮の政策と、既成事実に弱いこと―国の赤字や借金の既成事実化

 国が赤字をすることはよいことなのだろうか。国が借金をすることはよいことだからどんどんするようにしたほうがよいのだろうか。反緊縮の政策ではそれらをしたほうがよいのだとされる。それを支持する人は少なくはない。

 国の赤字や借金は、そもそもがよいものだとは言えそうにない。それらがよいものだと見なされるのは、それらがなし崩しとして既成事実と化していることによる。日本の社会では既成事実となっているものに弱い。そこから、既成事実になっているものは悪いものではなくてよいものだというふうに見なされることになる。

 国の赤字や借金が既成事実と化しているのだとしても、それについていまいちど改めて待ったをかけるようにしてみたい。待ったをかけることができるのだとすると、もともとが国の赤字や借金はよいものだとされているのだとは言えそうにない。

 よいか悪いかについては色々な点から見られるのはある。だから色々に見られるのはあってよいもので、反緊縮の政策による見かたもあってもよいものではあるだろう。その中で何がよいか悪いかを見られるとすると、一つには法で決められている決まりを守ることがある。それについてを原則論と例外論で見てみられる。

 原則論で見られるとすると、国の赤字や借金は原則としてよくないものだとされている。だから、原則に照らし合わせてみればよいものだとは言えず悪いものだと見なすことがなりたつ。そう言うのだとしても、どのような原則であったとしてもそこには例外がつきまとう。そうしたことが多いので、例外論として見てみると、例外として国の赤字や借金が行なわれる。

 例外論では例外として国の赤字や借金は行なわれてもよいのがあり、その例外が拡大して行った。それで原則と例外が逆転することになり、例外が常態化した。原則が意味をなさなくなっている。そういうあり方が既成事実と化す。例外が原則になり、原則が例外になり、という転倒がおきている。

 一か〇かや白か黒かの二分法で割り切ることはできづらいのがあるから、絶対によいとか絶対に悪いとかとは言えそうにない。完全に割り切ることはできづらいのはあるものの、いまいちど原則論と例外論を整理するようにして、原則に立ち返るようにするのは一つの手ではないだろうか。

 原則がなおざりになっていて例外が拡大されているのが既成事実と化していて、それをそのままよしとするのはまちがいなくふさわしいあり方になるとは言い切れそうにない。日本の社会では既成事実と化しているのに弱いのがあるから、ただたんにそれに身をまかせてしまうのだとまちがった方向に進んで行くおそれがないではない。ほんらいの原則は何なのかを改めてふり返ってみて、それを絶対化するのではないとしても、もとはどうだったのかというのをうしろ向きの視点によってふり返って省みてみるのはまったく無駄になることではないだろう。

 参照文献 『絶対幸福主義』浅田次郎 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『赤字財政の罠 経済再発展への構造改革』水谷研治(けんじ)