政治家や選挙の立候補者をよしとすることと、枠組みのちがい―枠組みの同一性と差異

 東京都知事選では、立候補者の宇都宮健児氏と山本太郎氏がいる。宇都宮氏を支持する人もいれば、山本氏を支持する人もいる。この二人が合体したら、票が割れないでまとまるから、現職の小池百合子氏にうまく対抗できるかもしれない。

 宇都宮氏と山本氏が合体して、たとえば宇都宮太郎なんていうふうになったら、票が割れて拡散しないですむ。あくまでもこれは虚構のものだから、じっさいに合体できるのではないし、それぞれが個人だから、それぞれにちがいがあって悪いことはないのはある。

 宇都宮氏と山本氏で、それぞれが別々に立候補するのではなくて、どちらかに一本化するほうがよかったのだろうか。もしも一本化できていれば票が割れて拡散しないですんだので、票が集約されやすくなるから、そのほうがよかったのだということが言えるのだろうか。

 宇都宮氏と山本氏がそれぞれで別々に立候補したのは、それぞれのもつ枠組みがちがっていることによる。枠組みにずれがある。だから、宇都宮氏の枠組みをよしとする人もいれば、山本氏の枠組みをよしとする人もいる。そのほかの立候補者や現職をよしとする人もまたいる。

 政治家や立候補者がもっている枠組みがあって、それと有権者がもっている枠組みがあり、それらがぴったりと合うこともあれば、大きくずれることもある。ぴったりと合うのであればたがいに価値が共有されている。ずれているのなら価値が共有されていない。

 価値が共有されているのなら信頼がなりたつ。ずれがあるのなら信頼がなりたたず不信をもつことになることがある。距離感にちがいがおきることになり、距離がとても近いかそれとも遠いのかのちがいだ。

 まったくもって政治家や立候補者が言うことが正しいとは言い切れないから、言っていることを頭から信じこんでしまうのではなくて、疑うことがあってもよい。頭から信じこんでしまうと、距離感がとれなくなって、まひさせられてしまう。

 都知事選とは話は変わるが、国の時の権力の言うことであっても、それを頭から信じこんでしまうと距離感がとれなくなる。頭から信じこんでしまうと、時の権力のもつ枠組みとまったく同じ枠組みをもつことになり、同化させられる。

 時の権力のもつ枠組みとまったく同じにならなくてもよいのがあり、同化ではなくて異化することは有効だ。枠組みがまったく同じになってしまうとまひさせられてしまうことがあるが、それを避けるためには、距離感をとるようにしたい。枠組みをずらすようにして、隔たりをおこさせるようにする。

 時の権力のことを批判するのは、時の権力がもつ枠組みとずれがあることをあらわす。そのずれがあるのは悪いことではなくて、よい方にはたらくことが少なくない。まったく批判が行なわれずにみんな同じ枠組みによっているのなら全体主義の国家のようになってしまう。

 現実と虚偽意識と批判の三者の図式で見てみると、時の権力は現実そのものなのではなくて虚偽意識と化すことが多い。なのでそこへの批判は欠かせない。時の権力がもつ虚偽意識の枠組みと同化してしまってもしようがない。それと同化するのではなくて異化したほうがより現実に近い枠組みをもてることがある。

 みんなが同じように同化されていなくてもよいのがあり、人によっては異化する人がいたほうがちがいがおきてくる。時の権力と同じ枠組みをもつのではなくて、ずれがあるのであっても、ずれがあることが排斥されるようではよくない。ずれがあることだけをもってして排斥されるのはよいことではないから、それが承認されるようにして、人によって色々なちがいがあって、それが表明されたほうがよい。

 参照文献 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司