憲法の改正と構築主義―構築されたものとしての憲法とじっさいの社会

 変化することができるものが生き残る。だから憲法を改正することがいる。与党である自由民主党による漫画では、もやウィンというキャラクターが出てきて、そう言っていた。

 自民党の漫画については、進化論を打ち立てたチャールズ・ダーウィンは漫画で言われているようなことをじっさいには言っていないのだとして、色々な批判が投げかけられている。

 自民党の漫画で言われているように、変化するものが生き残るということで、憲法の改正をすることがいるのだろうか。その点について、構築主義によって見てみたい。

 構築主義では、自然と人為とを分けて、自然のものは変えられないが人為のものは構築されたものだから変えられるのだという。それに当てはめてみると、憲法は人為で構築されたものだから、自民党が党として目ざしているように憲法を改正することをさぐるのはあってよいことだろう。

 構築されているものはなにも憲法に限ったことだとは言えそうにない。それだけではなくて、日本の社会もまた構築されたものだし、国際社会もまたそうである。そこから、日本の社会を変えて行くことがあってよいし、国際社会を変えて行くことがあってよい。

 憲法というのは英語では constitution と言うとされる。これは動詞の constitute が意味する設立するということを含みもつ。憲法は構築(construction)されたもので、憲法によって国家が設立される。国家は設立されたものであり、構築されたものだ。とり決めによっていて、契約されたものである。これは国際社会にもまたいちおう当てはまるものだろう。

 つくられたものである日本の社会や国際社会は、かつてよりもどんどんよくなっているとは言い切れず、どんどん悪い方向に向かって行っていると言えなくもない。どんどん悪い方向に向かって行っているのであれば、進化しているのではなくて退化しているのをあらわす。

 悪い方向に退化している日本の社会や国際社会があるとすると、それらを少しでもよい方向に向かうように改めて行く。憲法を変えるべきだというよりも、日本の社会や国際社会のありようを少しでもよい方に変えて行くようにすれば、あり方がよく改まることが見こめる。

 憲法とじっさいの社会があるとして、どちらが正しいと言えるのかというと、じっさいの社会のほうがまちがいなく正しいとは言い切れそうにない。じっさいの社会に色々なまちがいや悪いところがあるのだとすれば、それを改めるようにする。じっさいの社会は構築されているものだから、変えることができるはずであり、それをよい方に変えて行く。いっきに大きく変えることはできないだろうが、少しずつ改めて行くことはできるだろう。

 憲法とじっさいの社会では、どちらも構築されているものだから、どちらも変えることができると見なせるが、憲法は変えづらいように硬性化されている。軟性化されていれば変えやすいが、そうはなっていない。ふつうの法律よりも変えづらくなっていて、それはあえて変えづらくさせている意味あいによる。

 硬性化されていてあえて変えづらくなっているものを、無理やりに力づくで変えようとしなくてもよいのではないだろうか。それを強引に変えようとするのは、ほかのものをさしおいて大きな労力をかけないとならなくなるから、高い合理性があるとはやや言いづらい。ほんとうにみんなが深くうなずけるだけの費用対効果があるかは定かではない。あとに社会の中に分断や亀裂が残らないという確かな保証はもちづらい。

 何が何でもどうしても憲法を変えないとならないとまでは言い切れないから、そこをさしあたっては棚上げにして、同じ構築されているものである日本の社会や国際社会のほうを少しでも改めるように努めて行くのは一つのやり方だろう。

 自民党の漫画で言われているように、もしも変えることがよいことなのだとすれば、それは憲法に限ったことではなく、変えたほうがよいことはそのほかに色々とあるから、それらをさしおいて、何にもまして憲法を変えないとならないというのは、誰がどう見てもふさわしい客観で絶対の優先順位のつけ方だとまでは言えそうにない。

 参照文献 『構築主義を再構築する』赤川学憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月