緊縮と反緊縮の政策と、社会の中の呪われた部分―普遍経済学と限定経済学

 弱者をすくう。そのために反緊縮の政策をおこなって行く。東京都の都知事選では、れいわ新選組山本太郎氏は立候補者としてそれを言っている。

 緊縮の政策はまちがっていて、反緊縮の政策は正しい。山本氏は、弱者をすくうことがいるのがあって、それを言っているが、政治でものごとをなすに当たって、それがふさわしいやり方だということが言えるのだろうか。

 フランスの哲学者のジョルジュ・バタイユ氏が言っていることをくみ入れてみたい。それをくみ入れるとすると、緊縮の政策は普遍経済学によっている。反緊縮の政策は限定経済学だ。

 普遍経済学は、経済がよくなることだけではなくて、悪くなることをくみ入れる。経済がうまく行きつづけて成長しつづけるとはしない。右肩上がりだけではなくて右肩下がりになることを無視しない。限定経済学は、経済がうまく行くところだけを主として見る。成長しつづけて行くあり方をとる。悪くなるところを見ない。右肩上がりになりつづけるのだとする。

 緊縮の政策では、弱者をすくうということとはじかには関わらないから、そこを切り捨ててしまっているのはあるかもしれない。そのいっぽうで、反緊縮の政策は、弱者をすくうというのをじかにくみ入れやすいから、その点についての社会の中の呪われた部分に目を向けているが、その反面で、国の借金という呪われた部分を切り捨ててしまっている。そこが反緊縮の政策が限定経済学であるゆえんだ。

 限定経済学ではなくて普遍経済学であると言えるためには、国の借金に目を向けることが欠かせない。そこに目を向けないで、国の借金なんかどうでもよいことなんだとか、それはまったく悪いことではないのだというのであれば、呪われた部分を切り捨てることになる。

 日本の社会がかかえる呪われた部分には少なくとも二つがあって、一つは社会の中にめぐまれない弱者がいることだが、それだけではなくて、もう一つには国の借金がある。国の借金をどうするのかについてをまじめに目を向けてとり組んで行かないと大変なことになる。そこをいい加減にしてしまうと、あとで大きな負のできごとがおきてしまう。それが危ぶまれる。

 弱者をすくうことと、国の借金をどうするのかは、どちらも大切なことであって、どちらかだけをやればよいというものではない。この二つは何とかするのにはとても難しいのがあるから、そうたやすく片づくことだとは言えそうにない。これさえやればよいのだという特効薬があるのだとは言いがたく、地道に少しずつできることをやって行く。それしかないのではないだろうか。

 反緊縮の政策をやって、国民にお金を配ったり減税をしたりしさえすれば、それが特効薬となって、弱者をすくうことや国の借金をどうするのかが、いっきょにぜんぶ片づく。もしもそうなればそれに越したことはないが、そんなうまい話があるのだろうか。うまい話が現実化するのならそれはよいことではあるが、それは大局の最適化が行なわれることをあらわす。

 大局の最適化はそうできるものではなく、たいていは局所の最適化ができるのにとどまる。ものごとは一瀉千里(いっしゃせんり)に一足とびにうまく行くものではなくて、小刻みに少しずつやって行かないと危険性がおきてくる。大きく最適化しようとするとそれが裏目に出ることがあるから、安全性を重んじるのであれば、小さな最適化を積み上げて行くのが適している。

 弱者をすくうことであれば、弱者が困っていることを一つひとつとり除くようにして行く。一人ひとりの具体の弱者が困っていることは個別性があるからそれぞれを別々に見て行くことがいる。国の借金をどうするのかであれば、むだに税金を使っているのを一つひとつ洗い出してそれをなくして行く。国民の負担を公平で最適になるようにして、国の税収を増やす。めんどうではあるが、個別に必要なことを色々とやって行ったほうが、ぜんぶをまとめて反緊縮の政策をやって何とかなるのだとするよりは、現実味がある話になりやすい。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『国債・非常事態宣言 「三年以内の暴落」へのカウントダウン』松田千恵子 『国債暴落』高田創 住友謙一 『赤字財政の罠 経済再発展への構造改革』水谷研治(けんじ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)