進化論と憲法の改正―適者生存(survival of fittest)か、不適者生存か

 進化論では、変化できるものが生き残るとされる。だから憲法を改正することがいる。与党である自由民主党による漫画の中ではそう言われていた。

 自民党の漫画で言われているように、変化できるものが生き残るのだから、憲法を改正することがいるのだということが言えるのだろうか。憲法を改正することだけがまちがいなく正しいのだということになるのだろうか。

 自民党の漫画では、進化論が持ち出されて、変化できるものが生き残ることから、憲法の改正をするのがいるとされているが、これをかんたんに単純化できるとすると、変えることは正しくて変えないことはまちがいだ、と言いたいのだろう。

 変えることは正しくて変えないことはまちがいだというのは、変えることをよしとするときにしばしば持ち出されるものだ。これが持ち出されるのがあるとしても、ものごとはそこまで単純なものだとは言いがたい。変えることだけが正しくて変えないことはまちがっているとできるほどに現実のものごとは単純なものではないだろう。

 自民党の漫画で言われていることとは逆に、変えないことが正しいのだとも言い切ることはできそうにない。変えることと変えないことを比べてみると、そのそれぞれに利点と欠点があるはずであり、それらの利点と欠点をあげてみるようにして、そのどちらか一方だけをとり上げるのではないようにしたい。プラスだけとかマイナスだけということはないものだろう。

 進化論を持ち出して、変われるものが生き残るということで、憲法を改正しようとするのだとしても、それがまちがいなく実証されるとは言い切れそうにない。それが悪くはたらくことになったり、悪いところが見つかったりすることがあるから、悪いところを見逃さないようにして行くことがいる。そこを甘く見逃してしまうと、反証(否定)されるべきところがされないままになってしまう。

 はたして、進化論で言われるように、生存競争と自然淘汰と適者生存はまちがいなくなりたつのだろうか。それは定かであるとは言えそうにない。適者ではなくて不適者が生存してしまうこともあるだろう。悪い人間ほど生き残るということがなくはない。その逆に、淘汰圧に耐えてよいものほど生き残ることもまたある。

 憲法を改正するのだとしても、それがまちがいなくよくはたらくとはかぎらない。まちがいなくよい内容になるとは保証できるものではないだろう。悪い内容に改正されてしまうことも十分にある。なので、ただ憲法を改正さえすればよいということにはならないものである。

 悪く改正するくらいであれば、何も変えないで改正しないほうがまだましだろう。内容のよし悪しに焦点を当てるとすると、それがよいか悪いかは色々に見られるのはあるだろうが、一つのものさしとしては、個人の自由の幅が広いかせまいかがある。それが広ければよくて、せまくなれば悪くなる。たとえ憲法を改正するのだとしても、個人の自由の幅がせばまってしまうのであれば、悪く改正されたことをあらわす。

 進化論では、変われるものが生き残るのだとして、変わるのはよく変わるのだということが意味されているのかもしれないが、憲法の改正においては、改正することはよくはたらくのだとは必ずしも言い切ることはできづらい。憲法の改正では、憲法を変えることがよいことで、変えるのであればよく変えることだというのは、まちがいのない自明な大前提とまでは言えないものだ。

 憲法を改正すればよくなるとは言い切れず、改正して悪くなったり駄目になったりすることもまたある。そこに注意することがいる。改正して悪くなったり駄目になったりするくらいであれば、何も変えないでそのままにしておいたほうがまだましだ。

 進化論でとり上げられる自然の生きものとはちがい、憲法は人間によって構築されたものだから、構築されたものであることからそれを人間の手によって変えることができるということが構築主義からするとなりたつ。だから憲法の改正が言われるのはよいのはあるけど、そのいっぽうで、憲法を変えないと駄目だというのもまた構築されているものにほかならない。

 憲法を変えないと駄目だというのは、客観のものだとまでは言えず、主観のものにとどまっている。憲法は人間によって構築されたものだから、それを人間の手によって変えて行こうとする試みはあってよいものだ。それとともに、憲法を改正しないと駄目だというのもまた構築されたものだから、それが客観かつ絶対に正しいとまでは言えそうにない。まちがいの見こみつまり反証される見こみがある。

 参照文献 『構築主義を再構築する』赤川学 『社会問題の社会学赤川学反証主義』小河原(こがわら)誠