山本太郎氏が東京都知事選に出馬することと、反緊縮の政策への疑問

 れいわ新選組山本太郎氏が、東京都の都知事選に出馬するのだという。山本氏は反緊縮の政策をやりたいのだと見うけられる。それは山本氏がその政策を必要または正しいことだとしていることによるのだろう。

 山本氏がやろうとしている反緊縮の政策ははたしてやるべきことだということが言えるのだろうか。反緊縮は正しい政策だということができるのだろうか。そこに疑わしいところがあるようにも見なせる。

 反緊縮の政策は、お金を国民に配るのや、減税をするのが行なわれる。それによって景気がよくなって、経済が回復するのだとされる。これには疑わしいところがある。

 英語のことわざでは、痛みなくして得るものなし(no pain no gain)と言われる。反緊縮の政策は、痛みなくして得るものを得ようとしているのがある。得るものを得ようとすれば、そこには痛みつまり税の負担があってしかるべきだろう。得るものだけ得ようというのはなりたちづらい。

 北欧などの国では、高福祉であるかわりに高負担でもあるという。福祉が充実しているのは、負担が高いことに裏打ちされている。多くを得ようとすれば、多くの痛みが避けられないのを示す。

 負担が多いか少ないかは色々に見られるのはあるが、北欧の国などに比べると、日本は高福祉でもないし高負担でもない。人口の構成比などがちがうから、日本では北欧のように高福祉で高負担にすることはむずかしく、日本ではせいぜいできても低から中福祉で(超)高負担だとされている。

 痛みなくして得るものなしのことわざのほかには、ただ飯はない(ノーフリーランチ)というのがある。反緊縮の政策は、ただ飯を得ようとしているように映る。ただ飯があればそれに越したことはないが、現実にはそれがないのだとすると、それがあるのだという見こみをもつのはむずかしい。

 反緊縮の政策はよいまたは正しくて、緊縮の政策はまちがっている。そう見なすのがあるが、緊縮の政策というのはそもそもがそれを目的とするものではないものだろう。あくまでもそれは手段にすぎない。一時の手段としてそれがいるのだと言っているものであって、その目的とするところは、国の持続性というところにあるものだろう。

 緊縮の政策は、国を持続させつつ、国民への痛みができるかぎり小さくなるようにすることも探って行く。やり方によってはそれを探って行くことができる。国民への痛みをできるかぎり大きくして、国民を痛めつけることを目的にしているのだとは言えそうにない。

 緊縮の政策では、国民への痛みがおきるのは避けられないが、それを避けて通ろうとするのが反緊縮の政策だ。痛みを避けて通ったとしても、それで国がよくなることになるのかの確からしさが定かではない。国民にお金を配ったり、税を引き下げたりするのだとしても、それによって景気がよくなったり経済が回復したりするまちがいのない確証があるとは言えそうにない。ただたんに借金が積み重なるだけに終わるのだとすると、よけいに国または国民の首がしまることになる。

 反緊縮の政策では、国が借金するのはまったく悪いことではなくて、よいものだとされている。これには信頼性や信ぴょう性があるのだとはちょっと言えそうにない。というのも、もしもそれに信頼性や信ぴょう性があるのであれば、国が国民から税や保険料をとっているのはおかしいものだろう。国が借金をするのが悪いことだから、国は国民から税や保険料をとっているはずだ。

 国民から税や保険料をしっかりととっておきながら、国が借金をするのは悪いことではないのだと言われても、説得性をもって耳には響かない。それに説得性をもたせたいのなら、これまでに支払った税や保険料をすべて返してもらって、ただちに無税国家にしてもらいたいものである。現実に国は国民から税や保険料をとりつづけてきたし、これからもとって行くのだから、国が借金をするのは悪いことで、だから借金をなるべくしないように国民から税や保険料をとっているのだと言うしかないのではないだろうか。

 参照文献 『国債・非常事態宣言 「三年以内の暴落」へのカウントダウン』松田千恵子 『財政危機と社会保障鈴木亘(わたる)