芸能人が政治の発言をするさいに、芸能人がおかしいのか、ファンがおかしいのか―芸能人を批判するのとファンを批判するのがなりたつ

 がっかりしたので、もうファンになるのを止める。商品を買うのやよしとしたりするのを止める。政治の発言をする芸能人にたいして、ファンとされる人がそう言うことがツイッターのツイートではおきている。

 芸能人にたいして、ファンになったり止めたりするのはファンの自由だから好きにしてよいことではあるが、ファンになるとかならないとかを、一か〇かの二分法のようにするのでよいのだろうか。もうちょっと中間のあり方があってもよいのではないだろうか。

 だれにたいしてファンになるべきではないのか。だれにたいしてファンになるべきなのか。それらを改めて見てみられるとすると、芸能人というのは、そこまで大ごとではないのではないだろうか。国家を揺るがすほどの大きなことだとは言えそうにない。あくまでも趣味の世界にとどまる。

 いまの首相やその政権にたいして、べったりと愛好するようなファンになるべきではない。政治においてはそういうふうに見なしてみたい。政治では、まず何よりも、時の権力者にたいして、ぞっこんといったように愛好してファンになるのはよいことではない。それよりも逆に反対者(アンチ)であったほうがよいくらいである。

 芸能人が政治の発言をするさいには、その芸能人がどうかというよりも、それをどう受けとめるのかのファンの側の質が問われてくる。ファンの質がよくないのであれば、ファンがよくないのだという見なし方がなりたつ。ファンはよいのだという大前提を自明のものとしてとることはできづらい。

 ことわざでは無くて七癖ということが言われている。それをくみ入れるとすると、芸能人にも癖があるだろうし、ファンにも癖がある。癖をまったくもたないファンはいないだろうから、ファンのもっている癖がおかしいことがある。そのさいにはファンが自分のあり方を省みるようにすることがあってもよい。

 ファンは芸能人を批判することがあってもよいけど、ファンが批判されることがあってもよい。ファンが芸能人を見切ることがあってもよいのとともに、ファンを見切ることがあってもよいものだろう。ファンの範ちゅうの中には、駄目なファンもいるだろうし、いかさまもいるかもしれないから、そうであるのなら見切ったほうがよいことがある。

 ファンとはいっても、ファンになられた対象となる芸能人を生かす方向にはたらくとはかぎらない。その逆によくないファンにつかれたことによって芸能人が悪くなってしまうこともまたあるだろう。腐らせてしまう。これは一つには、ファンが愛好するしかたが悪いことがあって、適した間合いがとれていなくて、べったりとしすぎていることがある。へんな期待をかけてしまっていることがある。

 芸能人が多くのファンに愛好されるからといって、その芸能人のあり方が正しくなるとはかぎらない。政治においては、多くの有権者から支持されるからといって、その政治家が正しくなるのだとは言えそうにない。テレビ番組でいうと、多くの視聴者によって視聴されるからといって、その番組の質がよいとは言い切れないのがある。番組の質は悪いけど多くの視聴者に視聴されることがある。

 まったく一人もファンがいないというのではさびしいのはあるが、ある一定数より以上を超えるのなら、数を足し合わせることにとどまり、その数にとんでもなく大きな意味があるのだとまでは言いがたい。ファンの数が多ければそれだけ価値が生じるのだとは言い切れそうにない。

 どういう度合いのファンかの、浅いか深いかがあるとすると、浅いファンがいっぱいいたとしても、そこまで大きな意味があるのだとは言えず、そうであるのなら、深いファンが少数だけいたほうがよいのがある。浅いファンがいっぱいいたとしても、それらのファンがみんなかん違いをしていることがあるから、そのかん違いが解ければ、じつはファンではなかったのだということになってくる。あやふやさがある。

 ファンが愛好する対象の芸能人とのくっつき方がどうかがあるし、よい意味で見切れるのがあるし、悪い意味で見切れないのがある。よい意味で見切れるのは大人どうしの関わり合いだ。悪い意味で見切れないと、へんなかん違いをしてしまうことがあるし、へんな思いこみがおきることがある。へんなかん違いや思いこみをしたとしても、それはファンが悪いことがあるから、それを対象となる芸能人に当てつけることが正しいことだとは言い切れないだろう。

 芸能界にも同じことが言えるだろうが、政治では、まったく純粋なふうに成り立っているとは言えそうにない。きれいなのは見せかけにすぎず、じっさいにはどろどろとした暗いところがある。その暗いところは見せないようにしている。ファンが対象となる客体を愛好するとしても、それがまったく純粋なものだとは言えないから、その客体を完ぺきに純粋なものとして純化するのはおかしい。もっと不純なところを色々に見るようにして、少しは距離をとるようにすると安全だ。

 主体であるファンの不純さもあるし、客体となるものの不純さもあるから、どちらも汚れているといえば汚れているものだろう。まったく完ぺきにきれいだというのではない。主体であるファンの認知が歪んでいることがあるから、客体を客観に正確にとらえているのではないことがある。認知が歪んだままファンになることがあるだろうし、認知が歪んだままファンを止めることもある。そのさい、主体であるファンと客体とのどちらに非があるのかは定かであるとは言えそうにない。

 参照文献 『間合い上手 メンタルヘルスの心理学から』大野木裕明(おおのぎひろあき)