アメリカと比べて、日本の社会の中には差別があるのかどうか

 日本にはあまり差別はない。日本の社会の中にいるとあまり差別がないから、アメリカと比べると、差別にたいして気にすることができづらい。テレビ番組の出演者はそうしたことを言っていた。

 テレビ番組の出演者が言うように、日本の社会の中にはこれまでにあまり差別がなかったのだということが言えるのだろうか。だから日本の社会の中にいると、差別にたいして気にすることができづらいのがあるのだろうか。

 テレビ番組の出演者が言うのとはちがい、アメリカと比べてもそん色がないくらいに日本の社会の中には差別があるのだと見なしてみたい。日本の社会の中には差別がないまたは少ないのではなくて、それにたいして鈍感であるのにすぎない。われわれがそれに鈍感になってしまっている。敏感になれていない。きびしく言えばそう言うことができるだろう。

 政治についてを見てみることができるとすると、政治においては差別がまん延して横行してしまっている気がしてならない。政治では自由民主主義がとられることがいるが、これがいまの首相による政権によって壊されてしまっている。それがもとになって差別がおきてしまっている。差別が肯定化されている。ほんらいは否定されなければならないものが肯定されてしまっている。

 どのような政権であっても駄目なものは駄目だということで、ある特定の政権だけを甘く見なして許してしまってはならないが、いまの首相による政権は甘く見逃されてしまっていることが少なくない。これは自由民主主義が壊されてしまっていて、普遍化できない差別がおきていることをあらわす。そのことにたいして、大手の報道機関は敏感であるべきだが、鈍感になってしまっているのがある。敏感になれているのはほんのわずかのものにすぎない。

 人によって色々に見られるのがあるから、日本の社会の中には差別がないまたは少ないという見かたがあってもよいのはあり、それが絶対にまちがっているとは言い切れないのはあるが、もっとほかの色々な見かたをとれるとすると、特権化されて優位に置かれているものがあり、劣位に置かれてしまっているものがあるのは見逃せない。

 差別ということを問題(プロブレマティク)としてとらえられるとすると、日本の社会の中にはこれまでにさまざまな根が深い深刻なことが行なわれてきた。それがきちんととり上げられないできたのがある。そこにはうしろ向きの正しさが欠けているのがあるのは見逃せない。そこから、うしろ向きの正しさの欠如によって相互作用がはたらいて、前向きの正しさもまたおかしくなっている。

 政治の世界では、自由民主主義がいまの首相による政権によって壊されてしまっていることがおきている。そのことと差別の問題とが関わっていると見なすことがなりたつ。いまの首相による政権は、海外からは歴史修正主義だと見られているのがあり、歴史のふりかえり方におかしさがあることが見うけられる。これはうしろ向きの正しさにおかしさがあるのや、それの欠如があることをあらわす。そこから相互作用がはたらいて、前向きの正しさもおかしくなっている。そういうふうに見なせるのがあるのだとしてみたい。

 参照文献 『差別と日本人』辛淑玉(しんすご) 野中広務(ひろむ) 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫