アメリカで黒人が警察に暴行を受けることと、できごとの偶然性や偶有性

 アメリカでは、黒人が警察から暴行されたり射殺されたりすることがあいついでいるようだ。それで黒人の命も大切だ(Black Lives Matter)の抗議のデモがアメリカだけではなくて西洋の国などにも広がっている。

 デモの運動では一部の参加者が破壊の活動を行なっているのがあるという。店や公共のものなどが壊されている。そういう行ないはよいことではないからやらないほうがよい。すべてのデモの参加者が破壊的なのではなく、あくまでもそれは一部に限られるものであり、その多くは平和的な活動を心がけているようだ。

 アメリカで黒人にたいして警察が暴行を加えるのと、それにたいするデモの運動で一部の参加者が破壊の活動を行なうのとを、できごとだと見なしてみたい。この二つのできごとのうちで、どちらをより重んじて見るようにするべきだろう。それは明らかなことで、黒人にたいして警察が暴行を加えるできごとのほうをとりわけより重んじて見ることがいる。そこが発端となっているからだ。

 どのできごとにたいして敏感になるようにするべきなのかがある。どのできごとにたいして鈍感になってしまうのかがある。そのちがいに気をつけるようにすることをアメリカの大統領にはのぞみたい。アメリカの大統領だけではなくて、ほかの国の政治家にもそれがいる。

 鈍感にはならないようにしてできるだけ敏感になるようにすることがいるのは、できごとの中においても、偶然に個人が暴力に見まわれて命の危険にさらされるようなことではないだろうか。偶発や偶有として個人が負のできごとに巻きこまれて暴力を振るわれることになる。できごとには偶然性の一回性があり、負のできごとに実存である個人が巻きこまれることになれば、ひどいことであればそこで命を終えることがある。

 ことわざでは命あっての物種(ものだね)と言われるように、個人の命が理不尽に失われてしまえば何にもならなくなる。生きて行くうえで人はさまざまな物種となるような色々な悩みなどを抱えることはあるが、それはあくまでも命という大もとがあってのものだ。その大もとが理不尽に尽きてしまえば個人にとってすべてのもととなるものが失くなってしまう。国家主義では個人の命はないがしろにされがちだが、個人主義においては個人の命は大切にされなければならない。

 国家主義においては個人はそれそのものが目的ではなく国家の道具や手段とされてしまう。個人の命は二次のものとされて、国家が優先されることになる。それだと個人が犠牲にされることがおきてくる。それを防ぐためには、個人を重んじるようにして、個人をそれそのものとして目的とするような人格主義がとられることがいる。

 国家主義では国家が優先されることになる。国家の中に属するものとしては、アメリカでは白人や黒人や有色人種などの人種のちがいが社会の中に色々とある。そうしたちがいを本質とするのが本質主義だが、その本質よりも実存のほうが先だつとするのが実存主義だ。

 本質主義では本質は存在に先だつとされるが、実存主義では実存は本質に先だつのだとされる。人種や肌の色のちがいでいえば、それらを存在よりも先だつ本質とするのが本質主義だが、それらを本質と見なすのよりもそれらのちがいに定められる前の実存のほうがより先だつのだとするのが実存主義だ。

 アメリカの大統領は、敏感であることがいるできごとにたいして鈍感になっている。鈍感ではあるべきではないものであるのにもかかわらずそれにたいして鈍感になっている。何をいちばん重んじて見るようにするべきなのかでは、アメリカの中で黒人が警察に暴行を加えられることについてなのがあるが、そこにはあまり目を向けていない。デモの運動で一部の参加者が破壊の活動をおこしていることについてを重んじて見ている。それで国の軍を動かそうとしていた。

 デモにおける一部の参加者による破壊の活動もそれがひどいものなのであれば見逃せないものではあるにしても、ものごとをとりちがえてしまうようではよくない。同じできごとであったとしても、何にたいしてより敏感であるべきなのかや、何にたいして鈍感であってはならないのかのちがいが大切だ。そこをしっかりとさせるようにして、国家主義で国家の公が肥大化して専制化がおきないようにして行きたい。個人主義によるようにして、個人の私を優先させて、個人の生命などを平等に重んじるようにすることが自由主義ではいる。

 自由主義では無知のベールを持ち出すことができて、立ち場の入れ替えの可能性を試すことができる。それをしてみれば、自分が白人か黒人かがわからない中で、もしも黒人に当たるのだとすれば、自分がふつうに生活をしている中で偶発や偶有に警察から暴行を加えられる見こみが低くない。いわれなき誤解や偏見を受けることになる。これはとうてい受け入れられないものだから、社会の中にいるすべての個人がみな平等に偶然の負のできごとに巻きこまれないことを保障するようでないとならない。そこが不平等になっているのだと、自由主義においては肯定できるあり方だとは言えそうにない。

 参照文献 『寺山修司の世界』風馬の会編 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫 『公私 一語の辞典』溝口雄三実存主義』松浪信三郎 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編