反安倍はまちがっているのかどうか―反安倍が弱すぎる(少なすぎる)と言えなくもない

 いまの首相による政権を批判するのが反安倍だ。その反安倍について否定の見かたをするツイートがツイッターで言われていた。反安倍では駄目だというのである。

 はたして、反安倍というのは駄目なものなのだろうか。それについては、反安倍がうんぬんということではなくて、いまの首相におかしいところが大きいのだと見なしたい。

 反安倍が駄目なのではなくて、いまの首相がおかしい。反安倍がおかしいのではなくて、いまの首相がおかしい。そうしたことが言えるのではないだろうか。反安倍を悪玉化するのではなくて、それよりもいまの首相についてを批判するほうがどちらかといえば理にかなっている。

 いまの首相はいちおうは選挙で選ばれているから、その点においては正当性はある。そこは否定できないところだが、そのいっぽうで、二面性があるうちのちがう一面を見てみられるとすると、けっこうひどいところが色々にあるのだと言わざるをえない。

 よいと見なすのから悪いと見なすのまで色々に見られるのがあるから、人それぞれでさまざまな見なし方が行なわれるのがあってよいことだ。そのうちで、いまの首相やその政権についてを悪いと見なすのがあってもよいのがあり、そう見なすのはそれなり以上に当たっていて、そこまで大きくはずれているようには見なしづらい。

 反安倍ということでいまの首相やその政権を批判することが、完ぺきに客観に正しいとは言えないのだとしても、それなりに当たっているのはあり、それなりの理はある。そこそこ当たっていたり、そこそこの理があったりする。反安倍についてをちょっと甘めに見てしまっているかもしれないが、そのように言うことはまったくなりたたないことではない。

 反安倍ということでは、反安倍がどうかということではなくて、それよりも肝心なのはいまの首相やその政権がどうかをよく見るようにすることだろう。そこに肝心な点があるのであり、反安倍がどうかというのはさしてどうでもよいことと言ったら言いすぎかもしれないが、そこまで大きく重要なこととは言えないだろう。それよりも、反安倍ということで言われるいまの首相やその政権のまずいところが色々に見のがされてしまっているところがあるのがよいことではない。

 反安倍ということでは、いまの首相やその政権に批判を投げかけることだが、それは絶対の最終の目標ということだとはかぎらず、さしあたっての通過点のようなものだとも言えないではない。さしあたって反安倍をやっているというのがあってよいはずで、そういう試みを一つの行動としてやっているのがとんでもなくまちがったことだとは言えないものだろう。

 反安倍にもまちがいがあるのはいなめないが、それと同じかそれより以上にまちがいがあるのがいまの首相やその政権ではないだろうか。反安倍にもたしかに可びゅう性があり、合理性の限界があることはまちがいがない。それはまぬがれないのはたしかだが、それよりもよりやっかいでよりたちが悪いのが、いまの首相やその政権やそのとり巻きの役人などによる無びゅう性だろう。無びゅう性によっているために、いまの首相やその政権やそのとり巻きの役人などは、自分たちのまちがいをかたくなに認めようとしないことが少なくはない。

 政治の権力を握る者がまちがいを認めない無びゅう性によるようだと、国民がその巻きぞえをくう。それを少しでも和らげるためには、いままでよりももっと反安倍ということが言われてもよいくらいなのがある。反安倍というのが言われなさすぎているとも言える。反安倍が弱すぎる。それが強すぎるのではなくて弱すぎるというのもなりたたなくはない。それをうら返せば、いまの首相による政権が一強になってしまっていることをあらわす。

 もっと多種多様なさまざまな反安倍が人それぞれであってもよいのがあり、それらをゆるやかに広く反安倍と便宜としてくくることもなりたつ。色々な反安倍があるのでないと、意見のちがいがなくなり、ただ権力をよしとすることになるだけに終わり、同調や服従がとられて画一化が進んでしまう。

 参照文献 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『反証主義』小河原(こがわら)誠