何について反対の声をあげるのかの人によるちがい

 アメリカで黒人への差別がおきていることに反対の声をあげる。そのことに反対の声をあげるのであれば、中国でおきているウイグルチベットへの弾圧にも反対の声をあげていないとおかしい。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 たしかに、アメリカでおきている差別だけではなく、中国で国による少数民族にたいする差別がおきているのがある。そこから、アメリカでおきている差別に反対の声をあげるのなら、中国でおきている差別にも反対の声をあげないとならないのだということは言えるのだろうか。

 そのことについては、中国でおきている差別に反対の声をあげることを、一個だけ行なうことはあってよいのかがあげられる。中国でおきている差別には反対の声をあげるが、そのほかのところでおきている差別には反対の声をあげないのでもよいのかだ。

 どこでおきている差別について反対の声をあげるのかは、その人の価値についての意識が関わってくる。価値についての意識は人それぞれでちがっている。人によってさまざまな遠近法をもつ。どれを遠としてどれを近とするのかにちがいがある。

 中には、中国でおきている差別に反対の声をあげるが、そのほかのところでおきている差別には反対の声をあげない人もいるだろう。それはその人の価値の遠近法によっていることだから、その声のあげ方がまちがっているとまでは言い切れず、許容できないことではない。

 ひと口に差別がおきているとはいっても、共通点と相違点で見てみられる。共通点があるのだとしても相違点もまたあるから、同じことといえば同じことではあるが、ちがうことといえばちがうことでもある。ちがいがあるのであれば、ちがうようにあつかってもよいのがあるし、それぞれをちがうようにして解決することがいる。まったく同じようにして解決できるとは言えそうにない。

 共通点があることであれば、そのうちの一つだけをとり上げたのだとしても、ほかのことにも当てはまることがなりたつ。一つだけをとり上げたのだとしても、ほかを無視しているとは言い切れず、共通点があることなのであれば、共通して派生することがのぞめるから、まったく切り捨ててしまっていることにはならないのがある。

 一つのことだけをとり上げるのだとしても、その一つのことを深く掘って行くことができるから、色々なことを浅くとり上げるよりかはよいことだと見なせないではない。一つのことに参与して深く掘って行くことによって、ほかのことにも派生するような何かがつかめることがあるかもしれない。そうした一点に注力するあり方もある。

 おかしいことがおきていることの集合があるとして、そのうちの一つだけをとりあげるとしても、集合の中に含まれているその他のことをよしとしているとは言えず、同じようにおかしいものだとしていることがあるから、集合に含まれているぜんぶを一つも漏らさず同時にとり上げないとならないとは言えそうにない。

 おかしいことに声をあげることがよいことだと言えるとすると、まったく何にも声をあげないよりかは、そのうちの一つにだけであっても声をあげたほうがよいのがある。理想としてはすべてのおかしいことについて声をあげるべきだが、それには現実の制約がつきまとう。理想といえるほどに、すべてのおかしいことについてを一つも漏らさずに声をあげている人はいないだろうから、みんなが理想には届いていない。どこかに漏れはあるはずだ。

 おかしいことの集合のどれか一つをとり上げて、他はとり上げていないのだとしても、何をとりわけおかしいことだと見なすのかの重みづけは人それぞれでちがっている。重みづけはその時々によって変わることがあるし、それはまったく客観に行なわれるのだとは言えず、厳密に公正なものだとは言えないものだろう。

 ひとりの人が、完全に非の打ちどころがないほどにつり合いをとっておかしいことの集合のすべてをまんべんなくとり上げることはできづらい。そこに多かれ少なかれ偏りがおきてくることはまぬがれないのがあり、それは人間が合理性の限界をもつからだ。

 ある人はこれをおかしいと思って重みづけをしてとり上げて、別の人はまたちがった遠近法によってちがう見なし方をする、といったちがいがあり、そのちがいは人によるちがいということであるていどは許容できるものだとできる。色々な人のちがったあり方があって、役割の分担のような形でそれが全体で見てそれなりにつり合いがとれていればよいのではないだろうか。全体で見ても、けっきょくのところ偏りがあることはまぬがれないのはあるだろうが。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)