アメリカの舎弟としての日本―従米と警米

 アメリカの舎弟なのが日本だ。アメリカのお上が言っていることを日本はよしとするようにする。それがよいことなのだとツイッターのツイートで保守の人は言っていた。

 ツイートで言われているように、日本はアメリカの舎弟ということではたしてよいのだろうか。アメリカをよしとすることが日本にとってよくはたらくのだとまちがいなく言い切ることはできるのだろうか。

 アメリカは国の外で数々のまちがったことをこれまでにやって来ている。これまでになされた色々なまちがったことが十分に省みられていず、放ったらかしになっている。それをくみ入れるとすると、とてもアメリカのやることや言うことをそのままよしとすることはできそうにない。

 アメリカの舎弟が日本なのだとすると、アメリカと日本は対等な関係ではなくて優劣関係であることになってしまう。ほんらい主権をもつ国どうしはどこかがどこかの舎弟になるというよりは(建て前としては)対等な関係であるはずだ。

 アメリカの舎弟ということだと、従米になってしまう。そうではなくて、警米にすることがあってよいものだろう。従米だと、大に事(つか)える事大(じだい)主義であることになる。事大主義だと大だとされるものを疑うことが行なわれない。

 大だとされるものこそ疑うことが少しはあったほうがよい。そのためには従米ではなく警米であることが役に立つ。アメリカを警戒することだけではなく、警日もあったほうがよい。日本の国内の大に当たる日本のお上のことも必ずしも全面に信用することはできづらい。

 日本のいまのお上である与党の自由民主党アメリカとつながっているのがあるから、アメリカを警戒することは日本のお上を警戒することと切り離された別々のことではない。重なり合うものであり連関している。

 日本の政治にはかなりのところアメリカの意向がはたらいていると言われている。アメリカの意向による要望が、かなりのところそのままとり入れられて日本の政治で行なわれているのだとされる。

 日本にはほかの国と同じような政府と呼べるきちんとしたものがあるとは言えず、そのかわりに無責任の体系がある。きびしく言えるとすればそう言えるのがある。政府と呼べるからには、最低限の責任をもつことと、国民に説明をすることがいるが、それらがないがしろにされていると言わざるをえない。そういう点でも警戒することがいる。

 参照文献 『憲法の涙 リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください二』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)