税金をかけるべき表現と、かけるべきではない表現―脱中心化と異化作用

 天皇を悪く言う表現をあつかうもよおしに税金をつかうのはおかしい。ツイッターのツイートではそう言われている。

 愛知県で開かれた芸術や文化のもよおしがよくなかったとして、このもよおしをよしとした愛知県知事にたいして、辞職を迫る動きがおきている。

 もよおしの中では、天皇のことを悪く言うような作品があつかわれていたことから、このもよおしをよしとした愛知県知事は、まちがった税金の使い方をしたということになるのだろうか。それで知事を辞めることがいるのだろうか。

 どういう表現にたいして税金を使うのがふさわしいのかがある。表現には、当たりさわりのないものと、論争を呼ぶようなものとがある。当たりさわりのないものは、毒にも薬にもならないものをふくむ。論争を呼ぶものは、そこに毒が含まれていることから波紋を呼ぶことがある。

 中心と周縁に分けて見られるとすると、中心に行きやすい表現と、周縁における表現がある。中心に行きやすい表現の中には、駄目なものも少なくない。すべてが駄目なのではないが、情報量がそれほど含まれていないことがある。たとえば、お上をよしとする表現は中心に行きやすいが、えてしてそうしたものは情報量にとぼしい。栄養素の欠けた食べもののようである。

 中心に行きやすい表現には情報量にとぼしいものが少なくないし、意味が欠けたものが含まれている。中心に行きやすいものよりも、周縁にあるものに目を向けると、よいものを見つけることができることがある。革新性のあるものは周縁からおきることが少なくない。

 中心にではなくて周縁に目を向けるようにするのは、遠いものを近づけることだ。遠いものを近づけるのは、遠近法でいうと、ふつうのあり方とは逆のあり方をとることである。ふつうは近いものどうしで固まり合い、遠いものはそのまま遠ざけておく。そのようにするのではなくて、ふつうのありかたとはちがい、遠いものを近づけるようにすることに眼目がある。これは客むかえ(ホスピタリティ)だ。

 中心に行きやすいものではなくて、中心に置かれたものを脱中心化するようにして、異化するようにする。そうするようにすれば異化の作用がはたらく。日本はすごいとかよいとかとするだけであれば、中心化するだけにとどまるが、それとはちがい、脱中心化や異化をするようにして、日本がかかえる負の部分にも目を向けるようにして行く。遠いものを近づけるようにすることになる。

 中心に行きやすいような近い表現ばかりをよしとしていても、脱中心化や異化することにはつながりづらい。文学の理論であるロシア・フォルマリズムでは、文学には異化するはたらきがあるのだとされている。まわりと同化するばかりではなく、距離をとるようにすることもまたよくはたらくことがある。

 同化をうながすようなことばかりに税金を使うのではなくて、脱中心化や異化することにもまた税金を使うようにすれば、中心にあるものや近いものばかりをよしとしすぎることを防ぎやすい。戦前や戦時中の日本では、中心にあるものや近いものだけがよしとされた。同化することが無理やりに強いられた。抑制と均衡がはたらかず、暴走してまちがった方向につっ走ることになった。

 戦前や戦時中の日本のあり方を省みられるとすれば、中心にあるものや近いものだけをよしとすると、よいとされる表現だけが許されるような偏りがおきてくる。許容される範囲がせまくなる。許容される範囲がせまくなると、面積がせばまる。戦前や戦時中の日本は、許容される範囲の面積がせまかった。これがよいのだというのがあったからである。

 どれがよいのかということをとりあえず留保するようにして、許容される範囲を広くとるようにして、面積がせまくならないようにして広くなるようにする。範囲や面積を広げるとはいっても、何でもかんでもどのような表現でも許されるのではないのはある。

 税金をかけられるのは限られているから、その制約はあるが、色々な質の表現があることをなるべく広く認めるようにしたほうが、これしか駄目なのだとか、これがよいのだというのがあるべきあり方として決まってしまっているよりかは自由がある。局所の最適化のわなに思い切りはまりこんでしまうのをわずかには避けやすい。戦前や戦時中の日本は、全体が局所の最適化のわなにはまりこんでしまった。

 許容される範囲の面積がせまいよりも広いほうが、それだけ人々が色々な表現に接することができることになる。これはよいとかこれは駄目だということをあらかじめ決めてしまうと、その中で許されるものしかよしとされなくなってしまう。その中にではなくてその外にこそよい表現があるとすると、それをとり落とす。

 戦前や戦時中と戦後とを比べてみると、戦前や戦時中よりも戦後のほうが表現が豊かになっている。これは表現の許容される幅が広がったことと相関しているのがある。戦前や戦時中に幅がせまくされすぎていたのが改められて、幅が広くなったことで、人々が表現から受けとれる効用が上がった。発信や受信があるていど自由にできるようになった。それらが基本としてそれぞれの人の好きなようにできたほうがよいのにちがいない。それをまた戦前や戦時中のように幅をせばめてしまうと、発信や受信の自由が損なわれて、よい表現が生まれづらくなるし、表現から受けとれる効用が下がることがおきてくる。

 どういうものさしをもってして、よい表現とするか悪い表現とするのかがあるから、当てはめるものさしがちがえばまたちがう見かたをとることができる。戦前や戦時中の日本では、まちがったものさしによって、よい表現や悪い表現が決めつけられた。まちがったものさしを、正しいものさしだとしてしまい、とりちがえられた。そのとりちがえがおきないようにするためには、ものさしそのものをたまには改めて見直すようにすると有益だ。

 中心でよしとされるものさしと周縁でよしとされるものさしがずれていることから、ものさしのちがいによってよしあしがちがってくることがある。まったく同じものさしによっているのなら、中心と周縁のちがいはない。中心でよしとされていることだけが正しいのではなく、じっさいにはたった一つだけではなくて色々なあり方がある。

 戦前や戦時中の日本では、色々なあり方がよしとされるのではなく、たった一つの中心のものだけがよしとされて、ほかは駄目だとされたことによって、まちがった方向につっ走って行った。中心にあるものを、これだけがよいことだとか、これだけが正しいものなのだというふうにしてしまうと、抑制と均衡がはたらきづらくなるから、まちがった方向に向かうおそれがある。

 参照文献 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)