事前に批判や反対の声をあげられるようにしておく必要性―事後には手遅れになっていることがある

 政治において、批判や反対の声をあげる。自分の意見を言う。それをするかしないかは、そこまで大きなちがいがあることではないかもしれない。小さいちがいではあったとしても、それが小さくない意味をもつことはある。

 ものごとを事前と事後で分けて見られるとすると、政治において事前にやっておくべきことは何があるだろうか。それは色々なものがあるだろうが、できるだけ事前において国民が自発に批判や反対の声をいつでも自由にあげられるようにしておくことがあげられる。

 政治で批判や反対の声をあげるのは、いざそれをやろうとしたり、それが本当にいるときになったりしたら、すでにできなくなっていることがある。ちょうどよいときにちょうどよく声をあげられるとはかぎらず、遅きに失することがある。事後の視点ではそうなることがある。

 遅きに失することは過去の歴史でしばしばおきていることだから、そうならないためには、あらかじめ声をあげておくようにする。ちょっとくらいは関心をもっておくようにする。そうしておいたほうが、気がついたときにはほんとうに手遅れになってしまうことをほんの少しくらいは防ぎやすい。

 戦前や戦時中の日本や、ナチス・ドイツでは、ほんとうに人々が声をあげるべきときには、すでに手遅れになってしまっていて、声をあげることはもはやできなかった。ちょうどよいときにちょうどよいくらいのことを言うことはできなかった。ほんのちょっとずつの見逃しが積み重なって、それがしだいに雪だるま式に大きくなる。ついには手に負えないような独裁や専制の権力が築かれて行く。それが築かれて形になってしまったあとでは、手の打ちようがなくなった。

 マルティン・ニーメラー牧師の言った有名な発言がある。政治では、声をあげずに黙っていると、どんどんものごとが悪化して行き、さいごには身動きができなくなることがある。

 たとえ自分が声をあげないのだとしても、役割の分担ということで、批判や反対の声をあげたり行動をしたりすることが自由に行なわれていたほうが心強いところがある。政権に都合の悪い声であっても、それが排斥されるのではなくて包摂されていて承認されていたほうがまちがいを避けやすい。政権に都合の悪い声が承認されずに排斥されてしまうようだと、ニーメラー牧師があとで悔いたようなことになることがある。

 これはたしかにまずいと気がついたあとでは、もう手遅れになってしまっていることが政治ではあるから、そうなったあとでは修正をきかせるのがはなはだ難しくなっている。火事でいうと、まだ火が小さいぼやのうちに、それを何とかしようとすれば、たやすく何とかなりやすい。ぼやだから大丈夫だとしているうちに、やがてそれが大きくなって、本格の火事になったら、やっかいなことになっている。

 自分が知らないうちに戦争がはじまっていたということがないではないから、そうならないために、日ごろから少しくらいは情報を得るようにしておく。それで多少は気をつけるようにしておく。そうしておいたほうが、まったく何の気づかいをもたないよりかはいくらかはましである。わずかのちがいではあるが、それがものを言うことがないではない。思想家の吉本隆明氏は戦争をふり返った反省として戦後には高い温度による関心を払いつづける心がけをもつようにしていたという。

 政治の時の権力がおかしいことをやっているさいに、それを甘めに許してしまうと、それが積み重なって行ってやがて大きなことになるとやっかいだ。そこには社会的矛盾がはたらく。ほんとうは一つひとつについてをそのつどきっちりととがめ立てをして政治の権力を批判しておくべきところを、それをしないで甘めに許すことで、いざというさいに批判や反対の声をあげづらくなって行く。さすがにこれはまずいだろうということが行なわれたさいに、まずいことをやることができやすい環境がすでに整ってしまっている。

 立ち居ふるまい(ハビトゥス)のしかたでは、政治の時の権力と国民とのものがあるとすると、政治の時の権力は、国民が自由な立ち居ふるまいができないほうが都合がよい。政治の時の権力にとって都合がよいような立ち居ふるまいのしかただけを国民がとるようであってほしい。国民がそれをすなおに受け入れてしまうと、自発の服従がとられることになり、批判や反対の声をあげないのがよいという立ち居ふるまいのしかたが形づくられる。それが形づくられてしまっていると、いざというさいに批判や反対の声をあげづらくなる。

 どういう立ち居ふるまいのしかたがよいのかといえば、いざというさいに十分に批判や反対の声があげられるように、前もって事前に政治の時の権力にしっかりとわからせておくことがいる。しつように叩きこんでおく。芯からわからせるのは難しいのはあるが、わからせつづけるように地道にやっておいたほうが、あとに余地を残しておきやすい。批判や反対をする余地が多く残っていたほうが、修正をきかせることが少しはできやすいのがある。

 前もって事前に色々なあり方をとることができるようにしておいて、幅を広げるように地道にやっておかないと、幅がどんどんせばまって行く。色々な声による幅の広がりをもつ公共性がなくなり、色々な声をあげることがよしとされないようなあり方が形づくられてしまう。それが形づくられていると、政治の時の権力がよしとするような立ち居ふるまいだけが許されるだけになり、全体がまちがった方向に向かうことを修正することがきわめて困難になる。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『十三歳は二度あるか 現在を生きる自分を考える』吉本隆明社会的ジレンマ山岸俊男 『〈つまずき〉のなかの哲学』山内志朗(しろう)