学校の入学の時期を移行する案と、そのほかのことの見直し

 学校を四月から九月の入学に移行することが探られていた。このさいだから九月に移行することが案として言われていたが、与党である自由民主党はこの案を断念することにしたようである。準備するための時間などに制約があることによる。

 現実からすると学校の九月の入学の移行はきびしいのがあるのかもしれないが、このさいだから、これまでのあり方を見直そうという点については同意できるところがある。学校の入学についてだけではなくて、ほかのさまざまなことをできるだけ根本から見直してみるようにするのはどうだろうか。

 日本の制度のあり方は、一つの標準の型だけがよしとされるあり方になっていて、画一性や硬直性が高いと言われている。よしとされている一つの型を目ざしての競争が行なわれてしまう。標準の型からこぼれ落ちると底辺に落ちてしまいかねず、底辺に落ちまいとする必死の競争がおきる。それを見直してゆるめるようにして、色々なあり方が許されるような柔軟性がとれるようになればよい。社会のよさというのは、その社会がどれだけ多種の抜け道を許すのかだということを作家の村上春樹氏はどこかで言っていた。

 学校の入学の時期を移すのは、かりに社会の最適化になるにしても、色々なところに影響がおよぶものだから、かなり大きな変革になる。それが難しいのがあることから断念される方向になった。それと同じように、いきなり大きく変えるのは難しいことだろうから、現実にはきびしいのはあるのはまちがいないが、たとえ少しずつであったとしても、たった一つの標準の型だけがよしとされて、そこからこぼれ落ちたら駄目なのだとされるようではないようになれば、少しは人が生きて行きやすくなるだろう。

 じっさいに変えて行くのはいきなりはできづらいのはあるとしても、学校の入学の時期を移すことが探られたように、一つの機会だと見なせるのがあるから、これを機会にして、色々なことができるだけ根本から反省されて見直されることをのぞみたい。それをのぞみたいのは、日本は既成事実に弱いのがあるからだ。こうなっているからしかたがないとか、そういったしきたりが重みを持ちやすい。まちがっているしきたりであったとしても既成事実化しているとなかなか変えづらい。まちがっているかどうかは、人によって見かたが分かれるのがあるから、いちがいにこうだと言い切ることはできないのはある。

 参照文献 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘 『底辺への競争 格差放置社会ニッポンの末路』山田昌弘 『絶対幸福主義』浅田次郎 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)