首相にお疲れさまと言うことの必要性

 首相はがんばっている。だから首相にたいしてみんなでお疲れさまとかありがとうと言おう。ツイッターのツイートでそう呼びかけられていた。

 この呼びかけは、新型コロナウイルスの感染が広がっている中で、首相がその対策に当たっていることをねぎらうものだ。

 首相にたいしてお疲れさまとかありがとうとみんなで言うことはいることなのだろうか。それを言うことは、現実の実像にではなくて虚像にたいして感謝やねぎらうことになってしまわないだろうか。

 そもそも、首相はそんなにものごとにがんばってとり組んでいるのかどうかがいぶかしい。首相ではないほかの人たちのがんばりのほうが大きいのがあり、現場でものごとにじっさいに当たっている人たちなどは不当にがんばらさせられてしまっている。

 首相はどちらかというと目だちやすいけどがんばりが足りていないが、それとはちがい、目だちづらいががんばりが大きい人たちがいるとすると、目だちづらいところに焦点を当てるべきであり、首相に焦点を当ててみてもしかたがない。

 ただでさえ首相は目だちやすいところにもともといるのがあり、目だっているだけでそれに見合うだけの中身があるのかは定かとは言いづらい。目だっていることと中身や価値があることとは必ずしも相関しない。日ごろから権威化された形で首相に焦点が当てられすぎていることの弊害がある。

 かりに首相ががんばっているのだとしても、的を得た正しい方向性に向かって進んでいるのだろうか。まちがった方向にがんばって進んで行ってもしかたがない。色々なものごとについてまちがった方向に進んで行っているような気がしてならない。

 首相に感謝やねぎらいを言うことは、虚偽意識にたいして感謝やねぎらうことにつながりかねないのがある。そこには疑似環境がかかわってくる。われわれが報道機関などを介して知らされているのは、ほんとうの現実の環境というよりは、擬似の環境のところが小さくない。

 もしもほんとうに国民のためになるようなことに首相や政権が全力を注いでいるのだとすると、大局の最適化になっているのをあらわす。そうなっているのなら、首相にたいして感謝やねぎらうことを言うのはわからないことではないが、それは疑似の環境や虚偽意識である見こみがある。

 ほんとうに国民のためになっているような大局の最適になっているのではなくて、まちがった方向に向かっていっているような局所の最適化のわなにはまっているのだとすると、それを見すごすことはできない。そのわなにはまっていることは巧妙に隠されることになり、人目に触れづらくなる。あたかもわなにははまっていないかのようによそおわれる。

 首相に感謝やねぎらいを言うのは、人の自由だから悪いことではないのはあるが、それを言うことは、ほんとうの現実の環境にではなくて、擬似の環境や虚偽意識にたいしてそう言うことになる見こみがある。疑似の環境や虚偽意識におちいることをくみ入れるとすると、首相にたいして感謝やねぎらうことを言うことがいることの確からしさはそこまで高いものにはなりづらい。

 疑似の環境や虚偽意識においては、ほんとうの首相ではなく、それが偶像化される。偶像化されることによって、じっさいより以上の力をあたかも持っているかのように印象づけられる。印象づけられて偶像化された首相に感謝やねぎらいを言ってもしようがないところがある。感謝やねぎらいを首相に言うのは自由だから、それがあってもよいのはあるけど、それと同時に、批判もするようにするのはどうだろうか。

 (偶像化された)首相にたいして感謝やねぎらいを言うのは自由だが、それだけではなくて批判をするようにすれば、現実と虚偽意識とのあいだのずれがあることを意識化しやすい。疑似の環境や虚偽意識であるのを現実そのものだととりちがえてしまうのを少しくらいは避けやすくなるだろう。いずれにせよ生の現実をとらえることはできづらく、そこから多かれ少なかれずれてしまうのは避けられないことではある。

 参照文献 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)