政治の勉強の不足と、関心と無関心

 政治の勉強ができているかそれとも不足しているか。それが問われるのとは別に、政治のことがらに関心をもっているかそれとも無関心でいるのかがある。

 勉強ができているかそれとも不足しているのかだけではなくて、関心があるかそれとも無関心かもまた無視することができづらい。関心がなくて無関心であるよりは、少しであったとしても関心をもっていたほうがよい。

 関心をもっていなくて無関心なままだと、政治では、自分が関わることがおきづらい。自分とは関わりのない世界のできごとに政治がなってしまう。そうではなくて、少しであったとしても関心がもてるようになれば、自分の身近なものになりやすい。

 政治は人ではないから、(人の立ち場に立ってみるといったように)政治の立ち場に立ってみるというのはおかしい話だが、かりにその立ち場に立ってみられるとすれば、関心をまったくもたれないよりかは、少しでも関心をもってそれを示してくれたほうがよいのにちがいない。政治としても、人々から関心を少しでももってもらえるほうが本望だろう。関心をあまりもたれないとしたらおそらくつらいはずである。

 政治に関心を少しでももつということは、それに愛をもつことであり、自分の身近なものにして行くことにつながる。まったく何の関心や興味ももたなければ、愛がないことになり、身近なものになって行かない。それだとそこから何かが発展することは見こみづらい。

 何かに関心をもつことは愛をもつことになるから、まったく何の関心や興味ももたないよりかはよいことなのではないだろうか。関心や興味をもてれば、そこから何かが発展して行くことがあるし、色々と面白いことが見つかって行くことが少しはあるかもしれない。

 だれか人を好きになり愛するようになれば、その人がどういう人なのかを知りたくなってくる。その人にまつわる情報を色々に知って行きたい気持ちがおきてくる。ちょっとした小さい情報であったとしてもそれを知ることができればうれしいものである。好きで愛するのはあるが、まったく何も知りたくなくて、何も知らないでいつづけるということはあまりないことだろう。

 創造性の MRS 理論では、政治に関心をもてるようになるのは、動機づけ(モチベーション)がおきることだ。動機づけがおきてくれば、それに引っぱられる形で資源(リソース)や技術(スキル)も高まって行くことが見こめる。関心がなくて無関心で動機づけがなければ資源や技術も高まって行きづらい。勉強が不足しているのは資源が不足していることだから、それが足りるようにするためにも、動機づけをもつのは役に立たないことではない。

 参照文献 『新聞の読みかた』岸本重陳(しげのぶ) 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『ヘンでいい。 「心の病」の患者学』斎藤学(さとる) 栗原誠子