責任がある(と言う)のと、責任を水に流すこと

 責任は自分にあるのだと首相は言う。そう言うだけで、じっさいに責任を具体にとろうとはしない。これは、責任があるということを、水に流すということで使っているふしがある。

 首相は、責任は自分にあるのだと言いつつ、その責任を水に流す。そういう使い方をしているのがある。責任があるということが責任をとることのはじまりになるのではなくて、それが終わりになってしまう。はじまりやそのごの展開ではなく、終わりを含意している。

 責任というのは抽象性があるので、その抽象性があることによってごかまされてしまう。追及が行なわれないで、終わりになってしまう。そうなることで無責任体制におちいることになる。

 責任があると言うのとともに、無責任でもある。そうした矛盾したあり方におちいっている。日本の政治はしばしば無責任になりやすく、きちんと責任がとられることはそう多くはない。責任の所在がひどくあいまいだ。誰がどのような責任を負っているのかや、どこに責任を負う主体がいるのかがはっきりとはしていない。そこがはっきりと明らかにされない形で政治が動かされている。そう指摘されている。

 いざというさいに責任をしっかりととれるためには、誰が責任を負っているのかや、どこに責任を負う主体がいるのかがあらかじめはっきりとされていることがいる。日本ではそこがはっきりとしていないとされ、いざというさいに責任を回避してなすりつけ合うことになりやすい。誰も責任を負おうとはしない。全体責任は無責任(everybody's business is nobody's business)だと言われる。過去の戦争のさいにそれが見られたという。最終には国民に非が押しつけられて、国民が害や損をこうむるはめになる。お上や為政者は逃げおおせる。お上や為政者は国民の面倒を最後まで責任をもって見るわけがない。

 きちんと責任をとるようなあり方になっているとは言いがたいから、その中で首相がとってつけたかのように、自分に責任があるのだと言っても、じっさいには水に流すことになりやすい。追及がきちんと行なわれづらい。はじまりではなくて終わりを意味してしまう。首相が責任があるのだと言うことを受けて、いさぎよいというふうな誤った評価づけが行なわれてしまう。おざなりになることになる。

 参照文献 『政治学入門』内田満(みつる) 『法律より怖い「会社の掟」』稲垣重雄 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎