政治の発言をすることと、謙虚さとごう慢さ―非選択による和と選択による理

 自分の実力だけによって自分をよしとしてくれる多数の愛好者を得ているのではない。愛好者が自分から好きになってくれている。愛好者が音楽家を愛好するさいである。

 音楽家の自分の実力だけで多数の愛好者がいるのではなく、主導権はどちらかというと愛好者にある。その中で音楽家が自分で政治の発言をすると、自分の実力だけで多数の愛好者を得ていて、それに影響を与えられるのだというかんちがいをすることになる。政治の発言をしないことが謙虚であることだ。有名な音楽家はそういったことを言っていた。

 音楽家とその多数の愛好者を関係主義によって見てみられるとすると、それぞれが実体であるというよりは関係が先立つ。関係主義では関係の第一次性が重んじられている。

 多数の愛好者をかかえる音楽家がいるとすると、その音楽家が政治の発言をしないでつつしむことは、謙虚であることになるのだろうか。政治の発言をするのなら、謙虚ではなくごう慢なことになるのだろうか。この謙虚さとごう慢さは、和と理のちがいだととらえられる。

 関係主義から見てみると、音楽家と多数の愛好者との間がらは一つには和によってなりたつ。和によってなりたっているところで、音楽家が政治の発言をすると、和が乱れることになる。和が乱れるのを危ぶむことで、政治の発言がつつしまれることになる。和が優先される。和がしばりとしてはたらく。

 日本では理よりも和のほうが優先されやすい。理をうったえるよりも和を守ろうとする。そうなりがちなのがあるから、理をうったえて和が乱れることになると愛好者を失う。愛好者が減って行く。愛好者の数を保ちつづけるためには和を守るのが効果的だ。

 政治の発言では、自分がこうだというふうに見なした見かたを自分で選択する。このさい、自分で選択することになるが、日本には選択の文化が根づいていないのがあるから、選択することが避けられやすく、そこから政治の発言が避けられることになる。

 自分で選択をしないでいたほうが、和の間がらにとって都合がよい。あまりはっきりと選択をしてそれを示してしまうと和ではなくて理になる。理だと選択がくっきりときわ立ってしまうが、それとはちがい和だと選択というよりも非選択によっているから、何となくぼかしたままにしやすい。立ち場をはっきりとさせないですむ。そうしたあり方であったほうが多くをとりこむことに益になる。

 参照文献 『朝鮮語のすすめ 日本語からの視点』渡辺吉金容(きるよん) 鈴木孝夫 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ)