政治の発言と政治の勉強の不足

 政治のことがらについて、勉強をしていない。だから発言はしないようにした。テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 政治のことはひとまず置いておけるとすると、あることを勉強しないでいても発言することははたしてあるのだろうか。そのさいにあげられるのが報道機関などによる科学の情報だ。

 報道機関などで報じられる科学の記事は、必ずしも科学のことを十分に勉強しているのではない人が記していることが少なくはないという。ほんとうに科学がわかっている人からすると、科学がろくにわかっていないのに記事を記しているのが少なからず見うけられるという。

 科学の記事では、それを記す人がみんなもれなく科学のことを十分に勉強してわかっているとは言えないのがあるから、政治についてもそれと同じことが言える。報道機関による科学の情報でさえ十分に勉強していないで記事を記すことが少なくないのだから、(報道機関ではない)ふつうの人の政治の勉強の不足が絶対的に責められなくてもよいことだろう。

 政治の勉強については、理念としては、みんなが勉強をすでにすませているのがある。義務教育で政治についての基本は勉強しているのがあるから、あくまでも理念としては、基礎のことについては勉強ができていることになる。だからそれをもとにして政治の発言をすることはできるはずであり、それが求められているからこそ、義務教育で政治の基礎のことが学ばれるのがあるはずだ。

 音楽の演奏でいえば、まったく何も弾けないというのではなく、初級と中級と上級があるとすると、上級まではできないかもしれないが、初級くらいはみんなができることがあってはじめて民主主義の社会はなりたつ。理念としては、みんなが初級くらいはこなせるようでないとならないから、勉強していて政治の発言ができる人とそうではない人とに分かれてはまずいし、そうではないようになっているはずで、みんながまったく何も弾けないのではなくて、みんなが底上げされるような教育が目ざされているはずだ。

 民主主義の理念は平等なことにあるから、みんなが底上げされるようであったほうがよいし、できる人とできない人とで分断してしまうのはのぞましいことだとは言えそうにない。政治への参加は平等に開かれている(いないとならない)のがあるし、政治の行動として投票などはじっさいにこなされているのがあるから、政治の勉強は多かれ少なかれすでにできているとおしはかれる。

 かりに政治の勉強をしていなかったり足りなかったりするのだとしても、政治の発言をすることでそれがうながされることがのぞめる。政治の発言をするのは出力に当たり、出力は入力と関係しているから、出力をすることで入力に刺激が行く。それで入力がうながされて、勉強するきっかけになるかもしれない。また、出力しながら同時に並行して入力して行くことも可能だ。必ずしも事前に勉強していないとならないとは言い切れそうにない。

 政治の勉強をするのは、まちがいなく合理のものだとは言えないかもしれない。むしろ政治の勉強をしないほうが合理性があるのがあり、これは合理の無知と呼ばれる(合理の無知の仮説である)。政治の勉強をしないほうがむしろ合理の行動だということだ。そうも見られるのがあるから、政治の勉強をかりにしていなくても合理なのがあるから、そうであっても当然といえば当然のところがある。ふつうと言えばふつうだ。そうではなくて、政治の勉強をしているとすれば、それは研究者か、政治にとくに関心がある奇特な人か、えらい人か、変人かもしれない。

 参照文献 『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学松永和紀(わき) 『若者は、選挙に行かないせいで、四〇〇〇万円も損してる!? 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『デモクラシーは、仁義である』岡田憲治(けんじ)