有名な芸能人の政治の発言と、きつい否定とゆるい否定―義務の水準と権利の水準

 有名な芸能人などは、政治の発言をするべきではない。音楽業界であれば、そこに属する人は政治の発言をするべきではないということがツイッターのツイートで言われていた。それにたいして、音楽関係者である前に日本国民なのだと反論が言われていた。

 たしかに、ツイッターのツイートでは、音楽関係者にたいして、音楽関係者なのだから政治の発言はするな、と言われていたが、音楽関係者である前に日本国民であるのがある。それに、音楽関係者なのだから政治の発言はするなというのは、音楽関係者であることと政治の発言をすることとのつながりが確かではなく、飛躍している。音楽と政治はじかに関係があるとは言えないから、別々のことがらだろう。

 有名な芸能人や、政治がわかっていないのであれば、政治の発言をしてはいけないのだろうか。これについては、論理学でいわれる否定の強弱と、反証主義によって見てみたい。

 有名な芸能人がいるとして、それに当てはまるのであれば、政治の発言をしてはいけないというのは、権利と義務でいえば、義務に当てはまる。義務に当てはまるので、政治の発言をするのは駄目で、しないのが正しい、となる。

 表現や発言をすることは権利に当てはまるものだから、義務でとらえるのはふさわしいものだとは言えそうにない。権利であれば、論理学でいわれるゆるい否定に当てはまる。ゆるい否定は、弱い否定や両立の否定とされるもので、政治の発言でいうと、政治の発言をしてもよいししなくてもよい。どちらかだけが正しいとかまちがいとはならない。

 有名人が政治の発言をすることを義務でとらえてしまうと、発言をするのはまちがいで、しないのが正しい、といったことになる。これは論理学でいわれるきつい否定で、強い否定や排他の否定とされる。

 有名な芸能人であろうとそうではなかろうと、表現や発言は義務というよりは権利なのだから、政治の発言であれば、それをしなければならないというのではないだろうし、しないようにしなければならないというのでもないだろう。したければすればよいのだし、したくなければしなくてもよい。どちらでも正しいことがあるし、中にはまちがっていることもある。きつい否定ではなくてゆるい否定だからである。

 政治についてがわかっているかわかっていないかの点では、それについてを反証主義によって見てみられるとすると、完全に非の打ちどころがなくわかっているのであれば無びゅう性によることになる。この無びゅう性は政治では官僚に見られる発想だ。官僚と言えども(だからこそと言ってもよいが)、人間には合理性の限界がつきまとう。無びゅう性によるのではなく可びゅう性によるのをまぬがれない。

 政治のことがわかっているのだとしても可びゅう性をもつのでまちがうことがある。わかっていないのだとしても、何から何までわかっていないということではないだろう。だからていどのちがいにすぎない。一か〇かや白か黒かの二分法によるのではなくて、灰色の中間のあり方だ。

 政治というのは、国会などでの大文字または巨視(マクロ)のものだけではなくて、日常における小文字または微視(ミクロ)のものもある。小文字のものから大文字のものをおしはかることができるから、大文字の政治がわかっていないとしても小文字の政治がわかっていれば、そこからあるていどの想像がなりたつ。小文字のものもくみ入れれば、何らかの形では政治はわかっているものだろう。何らかの形で政治を経験している。

 小文字や微視の政治では、たとえば具体としては学校で、家庭で、仕事場で、といったところでおきてくる。現実だけではなくて虚構の作品の中でえがかれるのもある。力の差や財力の差やよし悪しや正不正の差があり、持つ者と持たざる者がいる。力(might)と正しさ(right)はしばしば重なり合わず、力をもつ者が正しくないといったように、ずれることが少なくない。

 政治のことがわかっていようとわかっていなかろうと、いずれにせよ人間は限定された合理性しか持っていないから、その限定された合理性の中で何かを言ったりやったり(言わなかったりやらなかったり)することになる。まちがいを含んでいる見こみがある点では、人によってそこまでちがいがあるのだとは見なしづらい。どのような政治の発言や行動であったとしても、それがまったく反証(否定)されることがないことはないだろうから、それをうら返せば、全面として肯定されることもまたおきづらいことである。

 参照文献 『実践ロジカル・シンキング入門 日本語論理トレーニング』野内良三(のうちりょうぞう) 『論理的に考えること』山下正男 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利