人事の恣意性と、政権の言動の恣意性と、首相そのものの恣意性

 恣意(しい)の人事は行なわない。首相は検察庁の長官の人事についてそう言っていた。

 首相の言っている、恣意の人事は行なわないというのは、にわかには信じがたい。そもそも、恣意の人事と恣意ではない人事の線引きがあいまいだ。

 首相にとって、恣意ではない人事とは、あくまでも首相にとって恣意ではないということであり、首相にとって必然や自然なことに当たる。首相にとって都合が悪くはないことだとおしはかれる。

 人事権を行使するのは、恣意の人事を行なうためなのではないだろうか。恣意ではない人事は人事ではない。そう言ってしまうと言いすぎかもしれないが、いったいどこの組織でまったく少しも恣意ではない人事が行なわれているだろうか。

 たいていの組織は何かしらの問題を抱えているとすると、その一つのもとには人事にあるととらえられる。組織の上がおかしいことが少なくない。それは国においても同じように言えるものであり、お上がまったくまともだったことはきわめて少ないだろう(まったくゼロかもしれない)。

 ピーターの法則と言われるものがあるという。これはローレンス・J・ピーターという人が一九六九年に言ったものだとされる。階層化した社会において、人は能力の限界まで出世のはしごをのぼって行く。それでその人が有能ではなくなるところまでのぼって行き、そこで止まる。その人が有能なところで出世が止まるのではない。

 ピーターの法則によれば、人は出世のはしごをのぼって行くが、それで人が上にのぼって行くことで、逆に組織としては最適化されなくなることがしばしばおきるという。有能ではなくなるところまではしごの上に行き、上の地位についてしまう。そこにとどまりつづけてしまう。こうした例はそれほど少ないことではないだろう。

 恣意ということでは、もしも首相がこれまでに恣意ではない人事を行なっていたら、いまの首相による政権はなりたっていないだろう。ほかの首相による政権にとっくに変わっていることだろう。

 首相はこれまでに恣意の人事をいくつも行なってきたことから、政権が安泰でいられる。政権が引きつづいていることそのものが、恣意の人事が行なわれていることをあかし立てている。

 人事権の行使というよりは、首相や政権の言動に恣意性がある。さらに、もっといえば、首相がその地位にいることに恣意性がある。その地位にいるべき人が本当にその地位にいつづけているのかが疑問だ。色々な意見があるだろうが、もっとほかにその地位につくべきふさわしい人が一億人の中にいるのではないだろうか。

 自由民主主義においては、首相の地位は取り替えがきくものであり、競争性と包摂性がなければならないが、それがいちじるしく損なわれてしまっている。取り替えがきくのにもかかわらず、それがきかないかのようにごまかされている。取り替えがきかないというのは、ほんとうにそうなのではなくて、たんに自由民主主義における競争性と包摂性が失われていることをあらわす。色々に見られるのはあるだろうけど、そう見られるところがある。

 参照文献 『政治学の第一歩』砂原庸介 稗田健志(ひえだたけし) 多湖淳(たごあつし) 『二極化どうする日本』柴栗定夢(しばぐりさだむ) 『知のトップランナー 一四九人の美しいセオリー』ジョン・ブロックマン長谷川眞理子訳 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)