有名人が政治のことを言うことは、よいことか悪いことか―行ないのよし悪し

 有名な芸能人などが、政治の発言を行なう。その発言を行なうのは、よいことに当たるのか、それとも悪いことに当たるのか。そのどちらなのだと言えるのだろうか。

 一つには、有名な芸能人などが政治の発言を行なうのがよいことか悪いことかがある。

 もう一つには、有名な芸能人が、かりに自分が言いたいことがあったとしても、政治の発言だからということで言わないでおくのは、よいことなのか悪いことなのかがある。

 それらがよいことなのかどうかは、一般論というよりは、一つには状況しだいなのがある。状況によってはよいこともあるし悪いこともあるだろうから、一般論でこうだとは言えそうにない。

 何かの行ないがよいことか悪いことかは、目的合理性がある(目的に合っている)かや、法として違法ではないかや、その社会でよしとされていることかや、個人の好悪などによるとされる。また、自由主義において、その立ち場に置かれたとしたらどうかという立ち場の入れ替えの可能性を見るのがある。これは道徳や宗教でいわれる黄金律だ。

 政治においては、何も言わないでいるのは、賛成でも反対でもないのではなく、賛成することになってしまう。何も言わないでいると、賛成しているのだと受けとられてしまう。だから、賛成していないのであれば、何も言わないでいるのではなくて、何か声をあげたり行動したりするのでないと、誤解を受けてしまうから、声をあげたり行動をしたりする必要性があるのだと見なせる。誤解されるのを避ける必要性があるから、許容されてもよいことだろう。

 政治において言いたいことがあるけど言わないでいるのや、たんに何も言わないでいるのは、はたしてよいことだと言えるのだろうか。それをまちがいなくどんな状況のときでもよいことだと見なすことはできづらい。

 歴史においては、政治のことだからということで言うべきことを言わないでいたり、何も言わないでいたりすることによって、独裁の政治の権力がまちがった方向に向かって行ってしまうことがおきたのがある。これは、何も言わないでいたり何もしないでいたりすることは、賛成でも反対でもないのではなく、政治の権力のやっていることに賛成しているのだと受けとられてしまうことが関わってくる。

 よいことかそれとも悪いことかの点で言うと、有名な芸能人などが政治のことを言うのは、それがまちがいなく悪いことに当たるとは言えないし、悪いことだから政治のことは言うべきではないとは言い切れない。悪いことに当たるとか、悪いことだから言うべきではないという大前提をとることはできない。それがよいことに当たるのや、よい行ないと言えることがあるから、そのよいときがあることを見逃すことはできず、それに当たるのであれば、よいことをしていることになる。

 有名な芸能人などが、政治のことを言ったりやらなかったりして、それをするのを避けているとしても、それがまちがいなくどんなときでもよいことだということはできず、悪いときもまたある。悪いときであれば、悪いことをしていることになる。

 政治のことだからということで、何も言わないでいるのだと、賛成でも反対でもないのではなく、政治の権力がやることに賛成しているのだと受けとられてしまう。政治の権力がやることに何でもかんでも賛成するのは、権力の奴隷になることであり、権力のたいこ持ちになることである。政治権力が正しいことをやっているときであればそれでもよいのはあるが、過去の例をふり返れば、政治権力がまちがったことをしたことは数え切れないほどある。その点について注意することはいることだろう。

 国家の政治の権力は、絶対に正しいものだと見なされるのがよいのかといえば、そうとは言えそうにない。国家の政治の権力はたえず権力チェックされていないとならないし、三権の分立などで抑制と均衡(チェックアンドバランス)が働いていないとならない。そうでなくて政治の権力だけによる一権のあり方になっていると、自由主義が損なわれてくる。専制のあり方に転落する。それを防いで自由主義を保つためには政治の権力がほかのものによって批判されることがいることになる。

 参照文献 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)