政治のことがらをわかっていない人は発言してはいけないのかどうか―欠如モデルと対話モデル

 政治のことをわかっていないのに、政治の発言をする。わかっていないで発言するのはよくないことだ。こう見なされるのがあるが、わかっているのなら発言してもよくて、わかっていないのなら発言をしては駄目だ、というのでよいのだろうか。

 わかっているかわかっていないかで分けてしまうと、欠如モデルになってしまう。このモデルではわかっている専門家などがえらいことになる。わかっていないのは欠如していることであり、それを埋め合わせるようにする。たった一つのものさしによるあり方だ。学校の試験のように一つの正解や答えが定まっている。

 対話モデルであれば、正解や答えは一つとはかぎらず、色々な見なし方がなりたつ。はじめから正解や答えが決まっているとはかぎらず、対話のやり取りの中でそれが見つかってくることがある。やり取りの過程に意味がおきてくる。

 政治をわかっているのだとしても、それはわかったつもりにすぎないことがある。わかっているのとわかったつもりなのは似て非なるものだから、わかったつもりにすぎないのなら本当にわかっていることにはなりづらい。そのさいには、一つだけではなくて色々な異なる見なし方に触れることが益になることがある。

 だれしもが自分の立ち場にしばられているところがあるから、存在被拘束性をまぬがれない。この存在被拘束性があるのは社会学者のカール・マンハイム氏による。どこの立ち場にもしばられない完全に中立な視点から政治を見ることはできづらいから、あるていどの偏りがおきてこざるをえない。

 政治のことがらの全体像をくまなくわかっているとは言えず、ある一部分や一面をわかっているのにすぎないことがある。その一部分や一面がわかっているのだとしても、ほかのところをとり落としていることがあるから、そのとり落としているところはほかの人がとり上げることになる。

 森と木でいうと、森の全体をわかっているのではなく、そのうちの特定の木にとどまるものであり、それぞれの人がちがった木をとらえている。それぞれの人が、それぞれに木を見て森を見ずになっていることがなくはない。

 解釈学による循環の構造がはたらくことがおきることで、全体をとらえようとすれば部分をとり落とし、部分をとらえようとすれば全体をとり落とす。そういうことがおきてくるから、全体像をしっかりととらえたり、部分をしっかりととらえたりすることを共に両立させることはできづらい。どこかにとり落としが出てくるものだろう。

 光と闇でいうと、ぜんぶをくまなく光で照らし出すことはできづらく、どこかに闇の部分が残る。ぜんぶをいっぺんに言い切ることはできづらく、一つひとつが分節化されたうえで、一つひとつの語を用いることになる。一つひとつの語はそれが照らし出す光の部分に限界があるから、闇が残ることになり、明らかにならないところがおきてくる。光で照らし出されていない闇の部分が少なからずあるから、そこを見落としていることがある。

 言われたことを光が当たっているところだとすると、それが正しくないことがある。言われていないところである、光が当たっていないところのほうが正しいのがわかることはまれなことではない。言われていることが反証(否定)されることがあるから、そうなると言われていないところである光が当たっていない闇のところが正しいことになる。言われていることがまちがいなく正しいとは言えないから、それが実証されなくて反証されることがある。反証されるのであればわかっていなかったことをあらわす。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香