悪いことを言う人は、悪い人なのかどうか―IMV 分析と信頼学によって見てみたい

 悪いことを言う人は、悪い人とはかぎらない。テレビ番組の中でお笑い芸人はそう言っていた。

 お笑い芸人が、風俗業につく女性について問題となることをラジオ番組で言った。それに批判の声がおきている。それを受けて、テレビ番組の中で、悪いことを言う人は悪い人だとはかぎらないのだと言われていた。

 悪いことを言う人が悪い人とはかぎらないことについては、たしかにそう言えるところはあるが、それはまじで悪いことを言っているのではないときがあげられる。本気や本心ではなく悪いことを言うことがある。そのさいには、悪いことを言うからといって悪い人だとは言えそうにない。

 このことを IMV 分析によって見てみると、悪いことを言うのは伝達情報(Message)だ。悪い人ではないというのは、伝達情報と意図(Intention)とが等しくないことだ。意図とはちがうことを伝達情報として言っている。

 悪い人だから悪いことを言ったのか、それとも悪い人ではないが悪いことを言ったのか。それは、その人の意図がどうかと、伝達情報がどうかと、それらをどう受けとるのかの見解(View)によって色々なとらえ方がなりたつ。

 どういう受けとり方がふさわしいのかがある。悪い人ではないが悪いことを言ったのだとする見解だけではなくて、悪い人だから悪いことを言ったのだとする見解もなりたつ。悪い人だから悪いことを言ったのだとする見解を完全に払しょくすることができないとすると、一つの文脈としてはそれがなりたつ。

 悪いことを言うことは置いておくとして、悪い人というのはそもそもいるのだろうか。悪い人かよい人かというのは分けかたとしてやや単純だ。完全に悪い人はいないし、完全によい人もまたいない(めずらしい)。完全によい人というと聖人はそれに当たるかもしれない。それは例外として、一人の人の中には悪い部分もありよい部分もある。その二つが混ざり合っている。純粋な天使でも悪魔でもなく、その中間にある。行動の動機はたいてい不純さをふくむ。

 仏教の僧侶である親鸞(しんらん)聖人は、悪人正機説を言っている。善人は正しい教えを知って救われることがあるから、悪人であればなおさらそうなることが見こめるのだという。悪人ほど正されることが見こめる。この説によれば、悪い人のほうがもしかすると正しいことに気がつく機会を得られるかもしれない。

 悪い人だから悪いことを言うのは、負の価値をもっている人が負の価値のことを言ったのだととらえられる。それによって、発言する人と受けとる人とのあいだに価値のずれがおきて、価値がすり合わなくなる。信頼ができなくなる。

 心理学では、よいことは限定化されて、悪いことは一般化されやすいとされる。悪いことを言ったのだとすると、それが一般化されやすく、その人そのものが悪いのだというのは言いすぎにしても、少なくとも発言の責任は問われてくるのはあるかもしれない。とりわけ公共の電波で発言をするさいにはそれがおきてくる。

 悪いことを言ったのだとすると、それが一般化されて、発言の責任を問われることがあるから、そのさいには発言した人と受け手とのあいだの価値のずれを改めるようにする。それで価値がすり合うようにできれば、信頼を回復させられる。

 価値のずれがおきて、信頼が損なわれる。西洋の国なんかでは、政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)がきびしいから、政治として公正ではないとされることを言ったとすれば、それが批判を受けやすい。日本は西洋の国に比べればまだ甘いところがある。

 西洋の国のあり方が絶対に正しいとは言い切れないが、日本では政治的公正において甘いところがあるので、そこに問題があるのだと言えばそう言えるところがある。お笑い芸人は笑いをとらないとならないという厳しさはあるだろうが、政治的公正にもう少し配慮するようにして、受け手とのあいだの価値がすり合うようにして行くことがいるだろう。そうしないと世間(世界)のあり方からどんどんかい離して行くことになりかねない。

 参照文献 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや)