政権がやっていることへの反対の声と、臨界量―社会的矛盾

 検察庁法の改正案に反対する。その声がツイッターのツイートで多くなっている。反対の声が四〇〇万件を超えていて、ニュースでもとり上げられていた。

 改正案に反対する声が大きくなっているのを、臨界量(クリティカル・マス)によって見てみられる。

 たとえ目の前でよくないと見なせることがおきていたとしても、それについてよくないという声を多くの人があげないと、臨界量のしきい値を超えるにはいたらない。そこに社会的矛盾が引きおこることになる。よくないと見なせることがおきていても、それが黙認されてしまう。空気を読むことで同調や服従の心理がはたらく。

 人々がこれは無視することができないとかないがしろにすることができないということで声をあげても、それが少ない数だと臨界量にいたりづらい。数があるていどより以上に多くなると臨界量にいたり、一定の力をもつ。

 一般論として、何かよくないことがおきているのだとしても、それがよくないことなのだという声を発する人の数が少ないと、臨界量のしきい値を超えづらい。その声を発する人の数が多くなればしきい値を超えられて、ものごとを動かすことができる力をもつことがある。

 よくないことがあるさいに、それがよくないことだとして声を発する人が多ければ、ものごとを動かすことができやすいので、社会的矛盾における臨界量のしきい値を超えられる。社会的矛盾を解消できて、適した手だてを打つことにつなげられる。

 多数派が正しいとは限らないから、多数の声があるからといってそれがまちがいなく正しいことにはならないが、いまの首相による政権は、多数の数をうしろだてにしてものごとをおし進めているのが目だつ。その政権による数を頼みにするものごとの進め方への抑制として、声をあげるべきときに声をあげる人が多くなれば、多少の抑えがきくことがのぞめる。

 多数派がまちがいなく正しいとは限らないから、多くの人が声をあげることだからといってそれが正しいことだとは言い切れそうにない。その点については慎重に見て行かないとならないのはあるが、そのいっぽうで多数の数をもつ政権のやることについてもまたそれが絶対化されずに相対化されることがいる。民主主義は政治における相対主義の表現であると法哲学者のハンス・ケルゼン氏は言っているという。政権についてきびしい権力チェックの目が注がれることがいる。

 政権としては、政権に反対する人の数ができるだけ多くならないに越したことはない。だから反対の声が多くならないようにして、臨界量を超えないようにして行く。政権をよしとする声のあと押しをはかる。それでもおさえ切れなくなって、政権のやっていることにおかしいことがあるさいに、政権への反対の声が多くなれば、臨界量を超えるにいたることになる。

 政権にとっては、政権に反対する声をあげる人が多くなって、臨界量を超えるにいたるとしても、そうした反対の声をあげるのはあくまでも例外に当たることだと見なしたいものだろう。例外に当たる人たちが反対の声をあげているのにすぎない。例外に当たるものだと見なして、反対の声を政権は軽んじているかもしれない。

 政権の見なし方とは別に、有権者からの声が一定より以上のものにのぼるのだとすると、それをまったくないがしろにして無視してよいものとは言いづらい。国民主権主義が憲法ではうたわれているのがあるから、国家の権力である国家の公よりも有権者である個人の私のほうがより大事だとも言える。有権者のさまざまな声が排斥されてしまわずに包摂されて受けとめられるのがのぞましい。

 参照文献 『社会的ジレンマ山岸俊男 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房