ウイルスへの対策の出口戦略と文学で言われるカーニバル理論―冬と春(夏)の交代

 大阪府知事は、出口戦略ということを言っているようだ。新型コロナウイルスへの感染で自粛などが行なわれているが、その出口となる戦略をしめす。

 たしかに、出口をどうするのかは重要なことなのがある。出口は季節でいえば春または夏にあたる。これについては文学の理論のカーニバル理論を当てはめられる。カーニバル理論は思想家のミハイル・バフチン氏による。

 カーニバル理論では殺される王の主題がとられる。王は戴冠(たいかん)されたあとに奪冠される。王が奪冠されるのは、王が悪いものや排除されるべきものだと見なされて、(うまくすれば)やっつけられることになるからだ。これは象徴としてはやっかいなことやよくないことにあたる。

 季節でいうと自粛などが求められているのは冬にあたる。冬がつづいていることで抑圧されつづけている。それの開放となるのが春や夏だ。

 うまいぐあいに冬がつづいているのから春や夏がやって来るとは必ずしも言えそうにない。冬がうまいぐあいに去って春や夏が来るというまちがいのない確証はもちづらい。

 日本とはちがうほかの西洋などの国では、いまは冬なのだということで、きびしい寒さによる手だてをとったのがある。それとはちがい、日本ではそこまできびしい寒さによる手だてをとったとはいえず、中途半端なところがある。

 日本のやり方には中途半端であいまいなところがあるために、だらだらと冬が長つづきしてしまう。そうなることがもしかするとありえなくはない。うまいぐあいに進んで行けば、冬が去って春や夏がやって来ることは見こめるが、それがまちがいなく見こめるとは言い切れず、出口が見えづらいことがおきかねない。

 ウイルスへの対策とは別に、政治の点でいうと、いまの政権がきちんとしたことをやっていないのであれば、それが冬にあたることだと言える。その冬がなかなか去らず、いつまでも引きつづいて居すわりつづけてしまう。いまの政権が駄目なことを色々とやっているのであれば、それが冬にあたるものであり、それが去ることがのぞまれる。そうすることで春や夏がやって来る。

 いまの政権のもとで、春や夏がやって来ることが見こめるのか、それともいまの政権が冬と化しているのか。その見なし方については人によって色々に見られるのはまちがいないが、きびしく見なせばいまの政権によるあり方が春や夏だとしたり、そのもとで春や夏がやって来るのをのぞんだりすることは少なからずできづらい。

 参照文献 『忠臣藏とは何か』丸谷才一