自粛警察と権威主義―自我の不確実感と不安感

 自粛警察と言われる動きがおきているという。新型コロナウイルスへの感染がおきている中で、自粛が求められていることから来ている。

 あらためて見ると、自粛警察という言い方はちょっとだけおかしい。自粛は自分からするものだから、それを警察がとり締まるというのはどういうことなのだろうか。いわば他粛といったふうになる。

 警察は法にのっとって行動するものだから、どういう法にもとづいているのかがある。あくまでも法にもとづいていないとならない。それに警察がまちがいのない正義をになっているとは言いがたい。警察は国家装置の一つであり、まちがいなく国民の味方だとは言えそうにない。とりわけ国家警察(政治警察)はそうである。

 警察というくらいなら、下にではなくて上にきびしくするのはどうだろうか。下にきびしくて上に甘いあり方になってしまっているのは無視することができないものである。これを逆にして、もっとお上にきびしい見かたをするのがあったらよい。お上にきびしい見かたをするのが行なわれなさすぎていると、上である政治の権力にうみがたまり、腐敗して行く。

 ウイルスへの感染がおきている中で、先行きが不透明で見えづらくなっている。そういう中では、さわやかな疲労をおぼえるのではなくて、なかなか疲れがとれづらいぐったり疲労がおきてきてしまう。それが蓄積しすぎるとやっかいだ。これから右肩上がりでどんどん世の中がよくなって行くとはいえず、やや閉塞しているのがあるし、情報が過密で色々な情報が流れていることで神経を使う。そこで知らずうちに疲労がおきてくる。

 ぐったり疲労がおきすぎないようにするために、自分をいたわるのがあったらよい。自分への配慮や関心をもつ。自分を気づかう。自分を統治する。これはギリシア語では Epimeleia heautou または souci de soi といい、ラテン語では cura sui というのだという。哲学者のミシェル・フーコー氏による。

 不安や不確実感がおきていると権威主義になりやすい。日ごろから日本は権威主義になりがちだが、それがいっそう強まってしまう。そうすると上に甘くて下にきびしいあり方がより強まる。正義によっているつもりが、逆の不正義になってしまい、不正義がはびこってしまう。そうしたことがおきることがあるから、それについては少しくらいは気をつけておいたほうがよい。たった一つだけではなくて色々な複数の正義があるものだから、なるべく一つの正義だけによるのではないように気をつけて行きたい。

 参照文献 『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』原野翹(あきら) 『日本人論 明治から今日まで』南博 『疲労とつきあう』飯島裕一