学校の入学を九月に移す案には慎重論も言われている

 東京都知事大阪府知事(と大阪市長)は、学校の九月入学への移行に乗り気なようである。

 新型コロナウイルスへの感染が広がっている中で、学校が休校になっているが、その中で学校を九月に入学するように移行する案が言われている。この案には慎重論も言われているから、すべての人がよしとしているとまでは言えそうにない。

 大阪市長ツイッターのツイートで、学校の九月入学の案をよしとしないのはうしろ向きだということを言っていた。うしろ向きなのは駄目なことで、学校の入学の時期を九月に移すように変えるのが前向きでよいということを言いたいようだ。

 改めて見ると、目的は何で、手段は何なのかを見てみることができる。目的が何なのかをはっきりと明らかにさせたい。目的との関連でいうと学校を九月に入学するように移す案は手段に当てはまるものだ。その手段が、目的を達するのに本当に合理性があるのかどうかを改めて見られる。

 目的を達するための手段は一つに限られずいくつものものがあることが少なくない。一つだけしか手段がないことはあまりないから、色々な手段をあげるようにして、その中からふさわしいものを選べばよい。はじめから手段を一つだけにしぼって、これしかないといったやり方をするのはいついかなるさいにもまちがいなくよいやり方だとは言いがたい。

 大阪市長は学校の入学を九月に移す案をよしとしないのはうしろ向きだということを言っていたが、何かものごとを変えるさいには、変えさえすればよいとは言い切れないのがある。変えるか変えないかだと、前向きかうしろ向きかといったようなことになって、一か〇かや白か黒かの二分法におちいってしまいかねない。

 かりにものごとを変えるにしても、さしあたってはほんの少しだけ変えるといったように、小さくやって行くようにしたほうが、危なさは低くなる。いっきに大きく変えるのではなくて、工学として少しずつ改良して行く。瀬踏みするようにする。

 ウイルスへの感染が広がっている中で学校が休校になっているのはつねにないことだから、何かを変えるよい機会だというのはわからないことではない。せっかくのよい機会だからということで変えて行くようにするのだとしても、それがもっとものぞましいものである大局の最適になるとは言い切れないのがある。まったくまちがいのない絶対で最終の答えとは言い切れず、まちがいを含んでいることがあるから、そこを見ておくことはまったく益にならないことだとまでは言えないものだろう。

 参照文献 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)