ウイルスへの感染が広がっている中での、自粛と補償と不確実性へのそなえ

 自粛と補償を組みで行なう。さまざまな国でそれが行なわれている。

 新型コロナウイルスへの感染が広がっている中で、日本では自粛を求める声は強いものの、十分な補償が行なわれているとは必ずしも見なしづらい。

 自粛と組みで行なうことがいるとされる補償は、不確実性への備え(コンティンジェンシー・プラン)だと見なすことがなりたつ。自粛がいるとして、それを行なうと、ほかのまずいことがおきてしまうから、それに備えるために補償が行なわれる。

 自粛にたいする補償は不確実性への備えとなると見なせるとすると、補償が欠けていて(十分ではないとして)もしも大丈夫だとすると、できるだけすみやかに自粛が解除されればよいのはあるかもしれない。自粛が長引かない。また、かりに自粛があるていど長引いたとしても、それほど経済や国民の生活への傷が深くはならなければ大丈夫かもしれない。また、傷がそれなりに深いとしても、それがよく働く(うまく転がる)のだとすると、よい方向に向かうことがないではない。

 厳格主義(リゴリズム)のように、しっかりとした自粛としっかりとした補償がさまざまな国では行なわれているようだが、日本ではそれとはやや異なっているように映る。そこまで厳格な自粛というのではなくて、自由至上主義の父権主義のようなところがある。

 自由至上主義の父権主義(リバタリアンパターナリズム)では、自粛をするようにうながす。空気を読ませる。忖度させる。そこに多少の補償をつけて、自粛を少しはしやすいようにしている。そうした日本のやり方を悪くとらえれば、自粛も補償も厳格なものではなく中途半端なところはあるかもしれない。もっとものぞましいものである大局の最適にはなっていないおそれがある。

 参照文献 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)