政府を批判している人は、政府からの一〇万円をもらってはならないのかどうか

 日ごろから政府にたいして批判を行なう。そういう人は政府からの一〇万円の支給をもらうべきではない。ツイッターのツイートでそう言われていた。

 新型コロナウイルスへの感染が広がって、生活に困る人がおきている中で、政府は国民に一〇万円を配ることを決めた。この一〇万円を受けとるのにふさわしくないのが、日ごろから政府のことを批判している人たちだ。そういうことが言えるのだろうか。

 政府への批判と、一〇万円をもらうこととは、切り離して見るようにしたい。それらをつなげてしまうと、ちがうことがらがいっしょくたにされてしまいかねない。

 政府への批判をするかどうかは、それぞれの人または集団の自由であり、さまざまな意見が言われたほうがのぞましい。さまざまな意見のうちのどれが正しいのかは定かとは言えそうにない。思想の自由市場(free market of ideas)において色々な意見があったほうが、色々に見て行けるようになるから、その中に批判の意見があってもさしつかえがあるとは言いがたい。

 もしも思想の不自由市場といったようになっていて、たった一つの政府をよしとする意見だけが言われているのであれば、政府はまちがった方向につき進んでいってしまいかねない。じっさいにそれがおきたのが戦前や戦時中のあり方だろう。そう言えるのがあるから、もしも政府が国民に一〇万円を配ることがそれなりによい政策だと言えるのであれば、その手がらの一部は政府を批判している人にもあるのにちがいない。

 属性と個人とを切り分けて見ることができるとすると、批判の意見があるのと、それを言う人とは、分けて見ることがなりたつ。必ずしも意見とそれを言う人とを固く結びつけることはいりそうにない。その結びつきをほどいて、正や負の印づけをつけないようにすれば、中立に近い個人がいることになる。批判についてを負の印づけをしないようにすれば、たんに何らかの意見または行動をなす人というのにすぎないだろう。

 政府への批判によって政治が悪いほうに動いていってしまうとは言い切れそうにない。むしろ批判があったほうが政治がよいほうに動くことが見こまれる。すべての批判が政治をよい方向に動かして行くとは言い切れないが、その中にはよい方向に動かすことに役立つものがあるのは否定できない。

 政府が国民に一〇万円を配ることについても、そのいきさつを見れば、政府がはじめから自分たちで決めていたことではなく、むしろ一〇万円を配ることに難色をもっていた。政府のまわりの他の者からつき動かされて一〇万円を配ることを決めた。このいきさつを見てみれば、政府は他からの批判があってはじめて動いたのだというのがあるから、批判をした人があっての一〇万円の支給の決定だということが言えないではない。

 いったい何のために政府が一〇万円を国民に配るのかがあるから、その目的を見てみることができる。その目的というのは、広く見てみれば、国民の一人ひとりの生存権を果たすことではないだろうか。その権利を誰もが持っているのだから、たとえ政府を批判していたとしても、それによって生存権がはく奪されるわけではないから、政府から一〇万円をもらうのにさしつかえがあることにはならないだろう。

 国民の一人ひとりによる自己実現と自己統治が肝心なことだから、そのためには(いついかなるさいにもとまでは言えないにしても)政府を批判することが役に立つ。一〇万円をもらっておいたほうが、政府がろくでもないことに税金を無駄に使うよりかはよいことに当たるかもしれない。すべての税金が政府によってよいことに使われているとは言えず、中には使いみちがおかしいものを含む。これについては人によって色々な見かたがあるものではある。

 参照文献 『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン 森村進 森村たまき