ウイルスの感染に対応するすべての責任は自分にあると首相は言う―責任と信頼と価値の共有

 新型コロナウイルスに対応することのすべての責任は自分にある。首相は自分でそう言っていた。政治は結果責任であるとして、大きな責任を果たすために先頭を切ってやって行く決意だという。

 首相が責任を負うことを言うことでは、信頼が関わってくる。責任を負うのだとはいっても、信頼ができないのであれば、すなおにうなずくことはできづらい。

 不倫ということで言うと、不倫についてのすべての責任を負うのだと言ったとしても、その言った人のことを信頼できないのであれば、その人の言うことややることをそのまま受けとることはできづらい。責任を負うとは言っても、本当のことをつまびらかにさらけ出すとは限らないし、裏では隠れて不倫をしているかもしれないし、言っていることとはちがうことをやっているかもしれない。

 首相がすべての責任を負うと言っていることにもしも意味があるのだとすれば、国民とのあいだの価値がお互いにすり合っていないとならない。それがすり合っていないと信頼をいだけない。不倫でいうと、お互いの関係がやや冷めている。

 不倫でいえば、ただ不倫についての責任を負うと言うだけでは足りない。おきたことをできるだけつまびらかにして明らかにすることがいるし、裏で隠れて変なことをやらないようにしないといけないし、言っていることとはちがうことをやるのではないことがいる。そうしたことに加えて、相手と価値がすり合っていて信頼ができるかも大きい。

 不倫で言うのなら、もしも不倫をしたのであれば、しかるべきばつつまり謝罪や何らかの埋め合わせがいることになる。政治では地位にある者の辞任がいる。罪にたいしてはばつを受けることでつり合いの正義がとれることになるから、それがとれないのだと不つり合いになる。不つり合いがあまりにはなはだしいと不正義がはびこりかねない。不倫については色々にあるから置いておくとして、政治については大きな悪につながりやすいからとくにそれが言えるだろう。

 ちなみに不倫については、制度としての結婚をよしとするのならそれを悪いと見なすことになる。制度としての結婚よりも恋愛の自由をよしとするのなら不倫の悪さはやや軽くなる。フランスでは制度としての結婚よりも恋愛の自由に価値が置かれているという。日本の社会の中では誰がどのような不倫をするのかは定かとはなりづらくなっている。これが標準のあり方だという型が崩れてきているのがあるためだ。

 首相と国民とのあいだの価値がすり合い、信頼をいだけるかどうかは、首相が説明責任をきちんと果たしているかどうかによる。説明責任をしっかりと果たさずにないがしろにしているように映るから、そこからわかることは、首相は責任を果たすつもりがなく、果たしていないということである。国民とのあいだの価値が十分にすり合っているとは見なしづらい。信頼をいだきづらい。

 すべての国民が首相や政権について否定的だとは言えず、肯定の人もいるから、色々な人がいるのはまちがいない。すべてを一くくりにしてはいけないが、首相や政権についてをきびしく見なすとするのであれば、責任を果たすつまり説明責任を果たしているようには見えず、信頼をいだきづらくなっている。自由民主主義においては説明責任を果たすことはとても重要なことだから、そこがないがしろになっているのはいただけない。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘